「今は仕事の時間です、ジェシー部長。 どうか仕事に集中してください」、小児科の病棟に向かいながらナンシーはそう告げた。
彼女はその小さな患者の状態を注意深く確かめた。 怪我はそれほど深刻なものではなく、手術もそれほど複雑なものではなかった。
しかし彼女が手術室に入るとすぐに、チャールズが腕にボビーを抱えて病院にやってきた。
「ナンシー先生はどこだ?」、 チャールズは怖い顔をして切羽詰まったようたずねた。
「失礼ですが… ナンシー先生は 執刀中です。 いかがされましたか?」
ジェシーはチャールズが来たことに気が付くと、自分がナンシーの助手であることを忘れるくらい興奮してしまった。
「私の息子が息をするのも大変そうで、高熱が出ているんだ。 ナンシー先生の助けを求めに来たんだ」、とチャールズは顔をしかめながら告げた。
「彼女は手術中の患者を優先しなければいけません。 ナンシー先生は 手術が済むまで手術室を離れることができません。 フー様、 どうか私にあなたのお子さんのことを任せてください」、とジェシーは辛抱強くプロらしく説明した。
「わかった」、チャールズはためらいつつもそう返事をした。 ボビーがほとんど意識がなく、あまりにも心配だったのですぐに彼をジェシーに引き渡した。
ジェシーはボビーを病室に運び、ベッドの上に寝かせて酸素と点滴の準備をした。
「ママがいい。 ママがいいんだ!」、 ボビーは朦朧とした意識の中そうつぶやいた。
「いつ彼女は手術室から出てくるんだ?」 、チャールズは心配そうにたずねた。
「ナンシー先生は この病院でも人気の先生の一人です。 彼女を並んで待っている患者さんいらっしゃいますから 彼女はいつもとても忙しいです」、とジェシーは苦々しくそう言った。
「手術はいつ終わるんだ?」 、チャールズは歯を食いしばってそう叫んだ。 彼は生来の冷たい人物だったが、その我慢強さで知られており、特によく知らない人に対しては滅多にカッとなることはなかった。 しかし状況がいつもとは完全に異なり、ボビーの命と安全が危機に瀕しているときに言葉を選んでいる時間はなかった。
「い、1時間です」、ジェシーは口ごもった。 体が震えるほど怯えを感じ、 もう一度彼の怒りに触れることを恐れてもう何も言わなかった。
チャールズは彼女を行かせると、部屋の中を不安に満ちた様子で行ったり来たりしていた。
混乱して心がぐちゃぐちゃになっていた。 内心では、ナンシーが自分に呪文をかける特別な魔法の力を持っているのではないかと不思議に思っていた。 彼女のことをとても気に入っていたのはもはやボビーだけではなかったが、どうやら自分は訳の分からないまま彼女に対して身を切るような依存心を抱き始めているようだった。
昨夜の夕食会の間、チャールズは彼女のことしか考えられなかった。 彼女のことを頭から追い出すことができず、ほとんどいつも通りに頭を動かすことができなかった。
夢の中でさえ、彼女とのセックスにとらわれていた。
「いったい私に何が起こっているんだ !?」 、首を振りながら彼はひとり考えた。
とうとうナンシーが手術室から出てくると、無表情でチャールズは彼女のほうへと急いだ。
「話しがある」、と告げた。 その声は厳しく、まるでナンシーが何か彼に借りがあるように聞こえた。
彼女は常に自分の仕事に真剣に向き合っていたので、 瞬時に表情が厳しくなった。
「すみません、仕事中です。 今はどうか邪魔しないでください」
「名前をちゃんと呼んでくれないか? 私の名前は、チャールズ・フーだ」 ナンシーが自分に向ける無関心さに対して、若干腹が立ってきた。
「わかりました。 フーさん。 今は仕事中です。 どうか私に仕事をさせてください」、ナンシーはプロらしく真剣に返事をした。 どうやら本気で帰ってもらいたいようだった。
「私の名前はチャールズだ。 二度とフーさんと 呼ばないでくれ。 わかった?」、 チャールズは彼女の腕をつかんで容赦なく言った。
ナンシーは、彼が自分に何をしようとしていたのかわからなかった。 彼は自分の名前を言うためだけにここにいたのだろうかと不思議に思った。
「チャールズ、今すぐ私を離してください、いいですか?」、 下の名前で呼んでくれと主張されたので、 ナンシーは望みどおりにして真剣さをにじませた冷静な口調でそう言った。
「よし。 私は今君の患者の家族だ。 子供が病気になった。 今すぐ彼を診てもらえないか?」、 チャールズは、ナンシーをボビーがいる病室に引っ張りながらそう言った。
「つ、つまり… ボビーが?」 、彼女は言葉に詰まった。 本当に驚いてしまったのだ。 「昨日別れたときは完璧に元気だったわ。 たったの一日と一晩でどうやってそんなひどい状態に?」
「あなたのせいなんだ。 彼はひどくあなたに会いたかったんだ。 うれしいだろ?」 、チャールズは冷ややかに言った。 すべての怒りと不満を彼女にぶつけていた。
ボビーが彼女のせいで病気になりたがったのだとチャールズにはわかっていた。 そしてそんな状況で、彼はナンシーのところに行くしかないのだ。
「つまり、彼は私に会いたかったから自分で病気になったということ?」 ナンシーはとても心配になってボビーのベッドの脇に急ぎ、すぐさま彼の状態を確かめ始めた。 彼のまぶたを持ち上げることから始めて、瞳孔をチェックした。 「大丈夫よ、良くなるわ。 ミシマサイコを持ってきてちょうだい。明日は解熱剤を使うのをやめてね」、そう看護師に指示を出した。
「ナンシー先生、彼は私の患者です」、ジェシーは部屋に入ると突然そう言った。
何が起こっているのか理解できなかった。 小児科医としての10年の経験があるのだから、 何歳か年下のナンシーより劣っているわけがないのだ!
もしナンシーが自分の患者を取ったら、部長としての面目はつぶれるだろう。
「今すぐ出て行け。 私が彼女を必要としているし、息子もそうだ」、チャールズはジェシーのほうを向くとそう告げた。
ジェシーはナンシーに憤りの表情を見せると、振り返って部屋から出て行った。
「あなたに私の息子を預けるよ。 できるだけ彼が早くよくなるようしっかり頼む」
「大丈夫です。 私は常にすべての患者に平等に接して、彼らの健康と回復のために全力を尽くしています」
「違う!」
彼はその状況に気が滅入って、 痛々しい声で唸った。
「なんなの?」 、彼女は自問自答して 混乱している様子のチャールズのほうを向いた。
「どうしてチャールズみたいな支配的な男が突然こんなに神経質になったのだろう?」 、彼女は疑問に思った。
「いいか、彼はあなたの患者ってだけじゃない。 あなたのことをママだと思っている子供なんだ!」 、チャールズはそこまで大きくはないが力強い声でそう告げた。
「ママ?」 、とナンシーは思った。
チャールズの言葉に、ナンシーは全身に電気が走ったように感じ、 自分がそのことをほとんど忘れかけていたことに恥ずかしくなった。
彼女は深呼吸をすると厳粛な表情で彼のほうを向いた。 「わかりました、 フーさん」
そう言うと、彼女は厳しい決意とともにボビーのほうを向き、 そして彼にミシマサイコを投与した。
清潔なタオルを手に取って水を張った洗面器に浸すと、余分な水を絞ってそれをボビーの額にのせた。
ナンシーがボビーへの処置を始めると、チャールズは安堵を感じ始めた。 近くのソファーに腰をおろして彼女の働く様子を見ていた。
彼女のことを見ていればいるほど、彼は落ち着いていくようだった。
彼女がボビーの汗を優しく拭い、静脈注射を確かめて、その乾いた唇を湿らせるのを見ていた。
彼女はすべてを落ち着いて行った。 ボビーが病んでいるのを見たとき、彼は赤く熱されたフライパンに落ちた水滴のようにすぐさま不安になった。 簡単にパニックになってどうすればいいのかわからなかったのだ。
「これは普通の風邪です。 明日熱が下がれば、回復していくでしょう」 、チャールズの心配そうな顔を見て、彼女は優しい笑みを浮かべてそう慰めた。
「彼が回復するまでほかの人にかまわないでくれ!」、 チャールズは横柄な口調でそう要求した。
自分が落ち着けるのは彼女がそこにいる時だけだという事実に彼は観念した。
「チャールズ、あなたがTSグループの社長であると聞きました。 それに、男ですし、責任のある立場なんでしょう。 子供は自然に風邪をひきます」 ナンシーは忙しい医者だっだので、 この小さな子が自分のことをママと呼んだとしても、彼のためにほかの患者のことをおざなりにすることはできなかった。 「私が仕事に戻っている間、ボビーの面倒を見ていてください」
ナンシーは手を拭って出て行こうとしながらそう言った。
「私が言ったことを聞いていなかったのか? 行くなんて許さない!」 チャールズは立ち上がってナンシーの通り道をふさいだ。
ナンシーは自分が子供のころから顔がいい男性に弱いということを認めていた。 もしキャスパーがハンサムでなければ彼に騙されることはなかっただろう。
しかしながら、彼女が人生の早い段階で学んだ価値ある教訓は、男はハンサムであればあるほど、信頼に足らないということだった。
「チャールズ、無茶を言わないでください。 私は海外から戻ったばかりなんです。 働かなければ、給料をもらえません。 あなたが私のお給料を払ってくれるんですか?」
「いいだろう!」 、チャールズは瞬時に答えた。 彼は迷いなくきっぱり同意した。
「本当に無茶苦茶ですね!」 ナンシーは途端に腹が立ってきた。 病院にいる限り、彼女は自分の助けを求めるすべての患者の医者なのだ。 それが誰であろうと、病院においては、彼女にとっては患者の一人にすぎないのだ。
もちろん、彼女は本当にボビーのことを気に入っていた。 彼は優しい子だ。 しかし、彼女は彼のために仕事を遅らせるわけにはいかない。
「それで、あなたは行きたいのか? そんなのは不可能だ」 、警告なしに突然チャールズが彼女の腕をつかんだ。
腕が痛んだほど彼の力のこもった手が彼女をきつく捕らえた。