綾乃が婚約者の手で法廷へ突き落とされたあの日、空は怒るように泣き続け、土砂降りの雨が街を打ちつけていた。
四年間の交際のあいだ、綾乃は彼が自分を心から愛していると信じて疑わず、結婚すれば二人の未来は穏やかに続くものだと夢見ていた。
けれど──その信頼は、彼のたった一言で崩れ去る運命にあった。
荘厳な法廷の中、重苦しい空気が肌を刺す。そこにはもう、愛し合った記憶を語る余地もなかった。
「被告人・小林綾乃。あなたは審査員への賄賂、学術詐欺、そして故意殺人の罪に問われています。何か弁明は?」裁判官の声が冷たく響く。
綾乃の目は泣き赤く腫れて、涙で濡れていた。彼女は竹田信一をまっすぐ見据え、その瞳には愛憎入り混じった絶望の色が渦巻いていた。唇の端に浮かんだ冷笑は、深い悲しみを隠すためのものだった。
彼女は知っていた。誰も、自分のような平凡な女のために名門・竹田家を敵に回すことなどしないのだと。
静寂の中、綾乃はゆっくりと息を吸い込み、一字一句をかみしめるように言った。「私は──何も言うことはありません」
愛した男が、最初から義妹と関係を持ち、自分の研究成果を盗み、そして今は血のつながりさえ切り捨て、彼女を罪人に仕立て上げている。
もう、言葉など残っていなかった。
「ドン……!」
もう、言葉など残っていなかった。
「よって本裁判所は、被告人小林綾乃に対し、懲役8年及び罰金600万円の刑を言い渡す」
審判が下り、刑務官が囚人服を着た綾乃を連行した。
刑務官に腕をつかまれ、囚人服のまま連れ去られる綾乃。振り返り、原告席に座る竹田信一を深く見つめる綾乃。その眼差しには、燃え上がるような憎悪が満ちていた。
……
三年後。
刑務所の冷たい空気の中、看守の声が響いた。
「小林綾乃、保釈だ。出て来い」
その言葉に、綾乃は思わず顔を上げた。目の奥に一瞬、驚きと戸惑いが交錯する。
鉄格子の中で三年。痛みと屈辱にまみれた日々を生き延びてきた彼女は、まさか出られる日が来るとは思ってもいなかった。
一時間後、自由の空気を吸った綾乃は、真っ先に病院へ連れて行かれた。
重厚な扉の向こう、ICUのガラス越しに見えたのは、無数の管と機械に繋がれ、生気の失われた母の横たわる姿だった。肌は青白く、まるで息の根を止められた人形のようである。
「お母さんっ!」綾乃は叫び、涙をあふれさせながら扉に手をかけた。
その瞬間、背後から冷たい声が響く。「動かないで。この部屋は特別室。私の許可なしに入ることはできないの」
振り向いた先に立っていたのは──綾香だった。「綾香……あなたなの?! 母はもう小林家と縁を切ったはずよ!どうしてまだ彼女を傷つけるの!」
怒りと悲しみをないまぜに、綾乃は綾香を睨みつけた。
一方の綾香は、綾乃を見下すように薄く笑い、その瞳には嫉妬と軽蔑の色がちらりと光った。
そして、皮肉な笑いを浮かべた。
「お姉さん、誤解してるみたいね。私は助けようとしているのよ」そう言って、わざとらしく肩をすくめる。 「私がいなければ、あなたのお母さんはもうこの世にいなかったはず。あなたが見られたのは遺体だったでしょうね」
綾乃は奥歯を噛み締め、声を震わせながら言った。「偽善者ぶらないで。あなたが母を救う? どうせ私を利用しようとしているんでしょう!」
「ふふ、さすが元・学術界の新星ね。頭の回転だけは早い。 「残念だけど、今のあなたはただの囚人。私の意のままに動くしかないのよ」
綾香の口元が吊り上がる。「今日、伊藤さんと一晩一緒に過ごして。それだけでいいわ。 そうすれば釈放の手続きも、あなたのお母さんの治療もすべて整えてあげる」
「伊藤博昭……?! あの六十過ぎの男と?! あなた、正気じゃない!」 綾乃は叫び、全身が震えた。
「何が悪いの? 寝るのはあなた、得をするのは私。 彼と一夜を共にすれば、伊藤家の兵器契約が我が家に転がり込むの。あなたひとり売ったくらいで、足りないくらいよ」 綾香は冷たく笑い、ICUの扉の方を指差した。「拒むなら、今すぐに酸素管を外させるわ。
お母さんが目の前で息絶えるのを見たい?」
「やめて!わかった、行く……行くわ!」
綾乃は絶望に打ちひしがれ、涙が止まらなかった。
母の命のために──それしか選べなかった。
彼女は涙を拭い、震える手で身支度を整えた。外に出ると黒い車が待っており、無理やり乗せられる。
行き先は──六十を過ぎた、太った耳たぶの大きな男のもと。
それが、彼女の初夜となる運命だった。