7年間の契約結婚の末, 夫は初恋の相手が帰国した途端, 娘に偽りの優しさを見せ始めた.
しかし, その口から出たのは, 初恋相手の息子の名前だった.
娘は「パパ」と呼ぶことすら禁じられ, 冷たく突き放され続けた.
それでも健気に「パパになってくれるチャンスをあげる」と言った娘の誕生日. 夫は, 娘を無視して初恋相手の息子の誕生日パーティーを開いていた.
画面に映る幸せそうな3人の写真を見た瞬間, 娘は静かに涙を流した.
「ママ, もうパパはいらない. 二人で, この家を出よう」
その言葉を聞き, 私は全てを捨てて娘と海外へ飛ぶことを決意した.
第1章
浅沼杏梨 POV:
契約結婚の七年間, 私は夫の隣でただの影として生きてきた. 彼は私を妻と認めず, 私たちの間には常に深い溝があった.
夕食のテーブルで, 陽生は初めて美羽に優しく話しかけた. 美羽の小さな手が震えて, フォークを落とした.
陽生はそれを拾い上げ, 「大丈夫か? 」と尋ねた.
美羽の顔に, 見たこともない満面の笑みが広がった. 目を輝かせ, 小さな声で「うん! 」と答えた.
私にはその光景が, まるで遠い夢のように思えた. 心臓が締め付けられるような痛みを感じた. これは, 私がずっと夢見ていた家族の姿だった.
美羽の無邪気な喜びが, 私の心の奥底を深く抉った. 私は必死で笑顔を作った. 美羽に不安を感じさせたくなかった.
しかし, 陽生のその優しさは, アルコールのせいだと知っていた. 彼の目が, かすかに潤んでいた.
彼は私を愛していない. 美羽のことも, 愛していない. その事実は, 私の中で決定的なものだった.
陽生の心が浮かれている理由も, 私は知っていた. 彼の初恋の相手, 大滝春奈が帰国したのだ.
陽生は過去に春奈を深く愛していた. 私たちが結婚するずっと前のことだ.
春奈は彼の前から突然姿を消した. 陽生はひどく打ちのめされ, 彼女を追って事故に遭い, デザイナーとしてのキャリアを危うく失いかけた.
私は彼の秘書として, 昼夜を問わず彼を支え続けた. 彼の絶望と怒りをすべて受け止めた. リハビリを励まし, 彼が再び立ち上がるまで見守った.
立ち上がったその夜, 陽生は泥酔し, 私を春奈と間違えた. そして, 私たちの一夜の過ちが, 美羽を授かったきっかけとなった.
陽生は責任を取ると言って, 結婚に同意した. しかし, それは表面的なものだった.
後に知ったが, 彼が私との結婚を決めた本当の理由は, 別の女性と結婚した春奈への当てつけだった.
結婚してからも, 陽生は私や美羽に一切関心を示さなかった. 美羽が生まれた日も, 彼は出張と称して姿を見せなかった.
美羽が言葉を覚え始め, 「パパ」と呼ぼうとした時, 陽生は冷酷にそれを禁じた. 「おじさん」と呼ぶように命じたのだ.
美羽が怪我をして泣きながら「パパ」と助けを求めた時でさえ, 彼は私を冷たい目で見下ろすだけだった.
そんな陽生が, 春奈が帰国した途端, 美羽に優しさを見せた. それが, 私にはただの偽りだと分かっていた.
彼は美羽に言った. 「これからは, いい父親になる努力をするよ. 」
美羽は陽生の言葉を信じ, 無邪気に喜んでいた. 彼女の瞳は, 父の愛を渇望していた.
しかし, 陽生が口にしたのは「蓮くん」という, 春奈の息子の名前だった.
彼の言葉を聞いた瞬間, 私の心は完全に麻痺した. 彼は美羽に優しく接しているようで, その実は春奈の息子への愛情を隠しきれていなかった.
美羽はまだそれを理解していなかった. 彼女は陽生の言葉を信じ, 私に尋ねた. 「おじさん, 本当に私のパパになってくれるのかな? 」
私は美羽の頭をそっと撫でた. 真実を伝えるには, まだ早すぎた. この残酷な現実から, 美羽を守りたかった.
私は美羽に提案した. 「美羽, 私たち, この家を出ようか? 」
美羽は目を見開いた. 「え? どうして? 」
私はゆっくりと言葉を選んだ. 「おじさんには, 本当に愛している人がいるの. その人と, その人の息子さんと一緒に暮らしたいんだと思う. 」
美羽は首を振った. 「そんなの嫌だよ! 私, おじさんが好き! 」
私は美羽を抱きしめた. 彼女の小さな体は震えていた.
美羽は泣きながら言った. 「じゃあ, チャンスをあげる! 私の誕生日まで. それまでに, おじさんがちゃんとパパになってくれるか, 見てみる! 」
私は美羽の言葉に, 涙が止まらなかった. これが, 陽生に与えられる最後のチャンスだ. 私は頷いた. 「分かったわ. 美羽がそう望むなら. 」
美羽は私の顔を見上げ, 小さな手で私の頬を拭った. 「ありがとう, ママ. 」
私は美羽を抱きしめた. もし陽生がこのチャンスを無駄にしたら, 私たちは二度と彼の前に現れないだろう. 心の中で, 固く誓った.
美羽が寝息を立て始めた後, 私は寝室に戻った. 静寂の中で, 私はこの結婚の終わりを覚悟した.
翌朝, 美羽はいつものように陽生の部屋の前に立ち, 彼が出てくるのを待っていた. 陽生が姿を現すと, 美羽は満面の笑みで彼に駆け寄った.
「おじさん, おはよう! 」
陽生は眉をひそめた. 「なぜ『おじさん』と呼ぶんだ? いつになったら『パパ』と呼んでくれるんだ? 」
美羽の笑顔が凍り付いた. 彼女の小さな体が, わずかに震えた.
私は美羽の隣に立ち, 陽生を見た. 彼の目は, 私を威嚇していた.
美羽は震える声で言った. 「パ, パパ... 」
陽生は満足そうに頷いた. しかし, その表情は一瞬で元に戻り, 彼は私たちに何も言わず, 玄関へと向かった.
美羽は小さな声で「行ってらっしゃい, パパ! 」と彼に呼びかけた.
陽生は振り返りもせず, 家を出て行った.
美羽は私に手を引かれながら, 幼稚園までの道を俯いたまま歩いていた. 彼女の背中は, いつもより小さく見えた.
美羽は突然立ち止まり, 私を見上げた. 「ママ, パパに与えるチャンスは, あと何回? 」
私の心臓が, 鋭いナイフで切り裂かれたように痛んだ. 私は美羽の頭を優しく撫でた. 「あと二回よ. 」
美羽は静かに頷いた. 彼女の瞳の奥には, かすかな希望が宿っていた.
私はその希望が, 再び打ち砕かれることを恐れた.
---