「ありがとうございます…でも」
私は言葉を濁した.
何に躊躇しているのか, 自分でもよく分からなかった.
ただ, 今の私には, どこへ行く気力も残っていなかった.
「もう十分苦しんだでしょう. 新たな人生を始めるには, 環境を変えるのが一番よ. あなたの才能を, このまま埋もれさせてはいけない」
彼女の言葉は, まるで長年の友人のように, 私の心を深く見透かしているかのようだった.
私は, もう一度, 深く考え込んだ.
本当に, このままではいけないのかもしれない.
この閉塞感に満ちた生活から, 抜け出したい.
「…行きます」
私の声は, 震えていた.
「あら, それは嬉しいわ. 夫も大喜びするでしょう. ところで, あなたの結婚生活は順調なの? 彼とは, もう会ってないんでしょう? 」
彼女の優しい問いかけに, 私の心は一瞬にして冷え切った.
「ええ, もう会っていません. そして, もうすぐ離婚する予定です」
私の声は, 驚くほど冷静だった.
電話の向こうで, 彼女は少し驚いたようだったが, すぐに気を取り直した.
「そう…残念だけど, それがあなたの選んだ道なら, 私も応援するわ. 新しい人生を, 心から楽しんでほしい」
電話を切ろうとしたその時, 玄関のドアが開く音が, 静まり返った家に響き渡った.
私の体が, 反射的に硬直する.
彼は, 帰ってきたのだ.
私は, 電話を切ると, いつも通り彼を出迎えるために玄関に向かった.
しかし, 私の足は, いつもよりも重かった.
「お帰りなさい」
私の声は, 感情のこもらない, 機械的なものだった.
彼の視線は, 私を通り過ぎ, まるでそこに私が存在しないかのように, 冷たいものだった.
「お兄様! 」
彼の妹の声が, 甲高く響き渡った.
「今日は, とっておきのサプライズがあるのよ! 」
彼女は, 私の隣に立ち, 勝ち誇ったような笑みを浮かべて, 私をちらりと見た.
その表情は, 「あなたには関係ない」とでも言いたげだった.
私は, 何のことか分からなかった.
サプライズ? 一体, 誰のための?
「サプライズって, 一体何のことかしら? 」
私は, 平静を装って尋ねた.
「ふふ, もうすぐ分かるわ. とびきりのサプライズよ. あなたが二度と, 私たち家族の前に現れなくなるような, 最高のサプライズ」
彼女の言葉は, 私を深く突き刺した.
まるで, 私が邪魔者であるかのように.
「二度と現れなくなる…? 」
私の心臓が, ドクンと音を立てた.
その言葉の意味を, 私は理解しようと努めた.
まさか, 私を追い出すつもりなのだろうか?
そんなことを, 彼は許すのだろうか?
「見てなさいよ. もうすぐ, あの人が来るから. あなたなんかとは, 比べ物にならないくらい素敵な人が」
彼女は, 私を睨みつけ, さらに挑発的な言葉を吐き出した.
その「あの人」という言葉が, 私の脳裏に嫌な予感を呼び起こした.
そして, その予感は, すぐに現実のものとなる.
玄関のドアが, 再び開いた.
そこに立っていたのは, 彼と, 彼の腕に抱きつく一人の女性だった.
女性の手には, 私の身長ほどもある巨大な花束が抱えられていた.
その後ろには, 数人の使用人が, 大量のスーツケースを運んでいる.
「航佑, 遅かったじゃない」
女性は, 彼に甘えるように話しかけた.
私は, その光景を呆然と見つめた.
花束.
そういえば, 彼から花束をもらったことなど, 一度もなかった.
結婚記念日にも, 誕生日にも, バレンタインデーにも.
私がもらったのは, ただ冷たい言葉と, 義務的な眼差しだけだった.
「…ここにいるのは, お前か」
彼は, 私を一瞥すると, 冷たい声で言った.
その声には, 何の感情もこもっていなかった.
「彼女は, 今日からこの家に住むことになった. 彼女の部屋は, お前が使っている部屋だ. すぐに荷物をまとめて, 出て行け」
彼の言葉は, まるで氷の刃のように, 私の心を切り裂いた.
私の部屋?
それは, 彼と私が暮らしている寝室のことだろうか?
「ちょっと航佑さん! そんな言い方しなくてもいいじゃないですか. ねえ, 直実さん. 私の荷物, 整理するの手伝ってくれるかしら? 手が離せないの」
彼女は, 私に微笑みかけた.
その笑顔は, まるで純粋な悪意に満ちているようだった.
私は, その女性の顔を, 初めてまともに見た.
そして, その瞬間, 私の全身に, 電流が走った.
彼女は, 私と瓜二つだった.
いや, 私よりも, もっと美しく, もっと完璧な顔立ちをしていた.
あの妹の言葉の意味が, ようやく理解できた.
「偽物」
そう, 私は, 彼女の「偽物」として, この家に存在していたのだ.
私は, 口元を歪ませ, 乾いた笑い声を上げた.
目尻には, 熱いものが滲んでいた.
ああ, なんて滑稽なのだろう.
私は, ただの「代役」だったのだ.
彼の, そして彼女の, 都合の良い「代役」だったのだ.
私が今まで信じてきたものは, 一体何だったのだろう?
「ふふ…, 私, 笑っちゃうわ. 本当に, 人生って, 皮肉ね」
私の声は, 震えていた.
「私が? 偽物? 一体, 何を言っているの? 」
彼女は, 純粋な驚きを装って, 私に問いかけた.
その演技は, あまりにも完璧すぎて, 私をさらに絶望させた.
「あなた, 一体何を言っているの? まさか, 私に嫉妬しているわけじゃないわよね? 」
彼の妹の声が, 再び甲高く響き渡った.
「嫉妬? 私が? まさか」
私は, 乾いた笑い声を上げた.
「大丈夫です. 分かっていますから. 私が, この家から出て行けばいいんでしょう? 」
私の声は, 驚くほど冷静だった.
「あら, そう? 寂しくなるわね. でも, 仕方ないわ. 私がここに来たからには, あなたがいた場所は, もう必要ないもの」
彼女は, 私の言葉に満足そうに頷いた.
その瞬間, 私の心の中で, 何かが音を立てて砕け散った.
「…いいえ, 違います」
私は, 頭を振った.
「私が言っているのは, そういうことじゃありません. 私, もうすぐ, この家を出て行きますから」
私の言葉に, 彼女の顔色が, 一瞬にして変わった.
「あら, そう? それは残念だわ. でも, 私も, あなたに居場所を奪われたくないの. だから, 私がここに来た以上は, あなたに出て行ってもらわないと困るのよ」
彼女は, 私の腕を掴み, 玄関のドアに向かって押し出した.
「航佑さん, 私, やっぱり, ここにはいられないわ. 私, 直実さんの居場所を奪うなんて, そんなことできない」
彼女は, 彼に甘えるように言った.
その言葉は, まるで私を追い詰めるための, 巧妙な罠のようだった.
「何言ってるんだ, 杏樹. お前は, 俺の初恋の相手だ. お前が帰ってきたんだから, 俺の家にお前が住むのは当然だろう」
彼は, 彼女を抱きしめ, 私を睨みつけた.
「お前は, この家から出て行け. 明日までには, 荷物をまとめておけ. さもないと, 俺が直接, お前を追い出すことになる」
彼の声は, 冷たく, 威圧的だった.
私の心臓が, ドクンと音を立てた.
私は, この言葉を, 待ち望んでいたのかもしれない.
「いいえ, 明日まで待つ必要はありません. 今すぐにでも, 出て行きます」
私の声は, 震えていた.
「本当に, いいんですか? 私, あなたに, ここまでひどいことをされても, 何も言わないなんて」
彼女は, 私に問いかけた.
その表情は, まるで私の心を弄ぶかのように, 歪んでいた.
「あなたは, 何も分かっていないわ」
私は, 乾いた笑い声を上げた.
「私は, あなたたちの間で, ただの道具だったのよ. もう, 十分だわ」
私は, 踵を返し, 自分の部屋に向かって歩き出した.
その背中には, 彼らの冷たい視線が突き刺さっていた.
「直実! 」
彼が, 私の名前を呼んだ.
その声には, 微かな焦りが混じっているように聞こえた.
しかし, 私は, 振り返らなかった.
もう, 彼の言葉に, 耳を傾ける必要はない.
私は, 自分の部屋に入ると, クローゼットの奥から, 小さなトランクを取り出した.
もう, 未練はない.
明日には, この家を出て行く.
そして, 二度と, 彼らの前に現れることはないだろう.
これで, 私の人生は, ようやく終わるのだ.
そして, 新たな人生が, 始まるのだ.
私は, そう, 心の中で誓った.