結婚記念日の夜, 夫は私に指一本触れず, 冷たく言い放った.
「お前は家政婦代わりだ. それ以上を望むな」
翌朝, 彼が妹の杏樹の写真に口づけする姿を目撃した私は, さらに絶望的な真実を知ることになる.
「杏樹は体が弱いから, 桃に代理母をさせる. 子供が生まれたら用済みだ」
彼は私を無理やり病院へ連行し, 体外受精を強要した.
かつて私を救ってくれたあの誘拐事件さえも, すべては私を利用するための自作自演だったのだ.
私はただの, 都合のいい道具に過ぎなかったのか?
絶望に打ちひしがれる中, 世界的ホテル王である養母から一本の電話が入る.
「桃, もう十分よ. 彼らに報いを受けさせましょう」
私は受精卵が入ったシャーレを床に叩きつけ, 冷笑した.
「さようなら, 涼太. ここからは私があなたを利用する番よ」
第1章
杉本桃 POV
結婚記念日の夜, 夫の涼太は私に一度も触れなかった.
テーブルに置かれた空のシャンパンボトルを見ると, 昨夜, 涼太が一人で飲み干したことが分かった.
私たちの結婚生活は仮面夫婦のまま, 三年が過ぎた.
私は今日こそ, この冷え切った関係を変えたいと願っていた.
涼太の書斎のドアをノックする.
「入っていい? 」
低い声で返事が聞こえた.
涼太は机に座り, 書類を広げている.
私はゆっくりと彼の背後に回り込み, 震える手で彼の肩に触れた.
「涼太, 今日は私たちの結婚記念日よ」
そう囁くと, 涼太の体がぴくりと反応した.
彼は書類から目を離さず, 冷たい声で言った.
「それがどうした」
私の指が彼のシャツの襟元に滑り込んだ.
心臓が激しく脈打つ.
「少しは私を見てくれないの? 」
涼太は書類を乱暴に閉じ, 立ち上がった.
彼の鋭い視線が私を射抜く.
「何をするつもりだ? 」
私の手は宙をさまよい, 彼のシャツから離れた.
「ただ, あなたに…」
涼太は私の腕を掴み, 乱暴に突き飛ばした.
私はバランスを崩し, 後ろの壁に背中を打ち付けた.
鈍い痛みが走る.
「杏樹以外に, 俺は欲情しない」
彼の言葉は, まるで氷の刃のように私の心を切り裂いた.
「お前は寺本家の家政婦代わりだ. それ以上を望むな」
私は息を呑んだ.
全身の血が凍りつくような感覚.
家政婦…?
彼の言葉が, 私の耳元で何度も繰り返される.
私は一体, 彼の何だったのだろう.
彼の発言の裏に隠された意味を理解しようと, 頭が高速で回転した.
その夜, 私は一睡もできなかった.
ベッドの中で, なぜ涼太が私をこんなにも拒絶するのか, ずっと考え続けた.
スマートフォンを手に取り, ネットで「夫が妻に触れない理由」と検索した.
多くの体験談がヒットしたが, どれも私の心に安らぎを与えるものではなかった.
共感するほど, 孤独が深まった.
朝方, 涼太がまだ寝室に戻っていないことに気づいた.
かすかに, 隣の部屋から奇妙な音が聞こえる.
私は静かに立ち上がり, 音のする方へ向かった.
ドアの隙間から覗くと, 涼太がソファに座っていた.
彼は手に一枚の写真を握りしめ, それに唇を押し付けていた.
写真の人物は, 私の妹, 杏樹だった.
私の視界が歪む.
吐き気が込み上げた.
涼太の口から, か細い声が漏れ聞こえた.
「杏樹…愛してる…」
私はその場で崩れ落ちそうになった.
体が震え, 立っているのがやっとだった.
この三年間, 彼が私を拒絶していた理由が, 今, 明確になった.
私は震える手で, ソファの横に置かれた涼太のスマートフォンを掴んだ.
ロック画面を開くと, 彼の友人とのチャット履歴が表示された.
メッセージをスクロールしていくと, 私を奈落の底に突き落とす会話が目に飛び込んできた.
「桃との結婚は, 家柄のためだけだ. お前も知ってるだろう? 」
「杏樹は体が弱いから, 子供は望めない. だから, 桃に代理母をさせる」
「寺本家の血を絶やすわけにはいかない. 桃には体外受精を強要する」
文字の一つ一つが, 私の心を深く抉った.
私は彼にとって, ただの道具だったのだ.
「計画は順調に進んでいる. 近日中に, 桃に病院へ行ってもらう」
彼の言葉は, 私の心を打ち砕き, 私に残されたわずかな希望さえも奪い去った.
ああ, 私は杉本家の養女だった.
実の両親に捨てられ, 杉本家に引き取られた.
彼らは私を冷遇し, 杏樹だけを溺愛した.
寺本家との婚約も, 元々は杏樹のものだった.
だが, 杏樹の健康問題で, 私がその身代わりになったのだ.
私の人生は, いつも誰かの代わりだった.
かつて, 涼太は私に優しかった時期もあった.
私がまだ杉本家で冷遇されていた頃, 彼は唯一, 私を人間として扱ってくれた.
彼のその優しさが, 私にとっての救いだった.
それが, 間違いだったのだろうか?
結婚してからの涼太は, 私に一度も触れなかった.
冷たい態度, 無関心な視線.
私はずっと, 彼がなぜ変わってしまったのか分からなかった.
今, 理解した.
彼は最初から, 私を愛していなかったのだ.
私の存在が, 彼にとってどれほど邪魔だったか, 今では痛いほどわかる.
私を救ってくれたと思っていた優しさも, 偽りだったと知った今, 私の心には何も残されていない.
全てを奪われ, 利用された挙句, 生きていく意味さえ見失いそうになる.
「私, 何のために生きてきたんだろう…」
私の口から, か細い声が漏れた.
その時, スマートフォンの着信音が鳴った.
画面には「ママ」の文字. 私の養母, 滝本睦子だった.
「もしもし, ママ…」
私の声は, 震えていた.
「桃? どうしたの, 声が変よ」
ママの優しい声が, 私の凍りついた心に微かな温かさを灯した.
私はこれまでの全てを, 涙ながらにママに打ち明けた.
「桃, あなたは何も悪くないわ. よく頑張ったわね」
ママの声は, 怒りに震えていたが, 私への愛情に満ちていた.
「これからは, ママがあなたを守るから. 何も心配しなくていいわ」
私の養父母は, 世界的なホテル王, タキモト・グループの総帥夫妻だ.
彼らが本気を出せば, どんな相手であろうと太刀打ちできない.
「涼太も杉本家も, 杏樹も, 全員に報いを受けさせるわ. 二度とあなたの人生に介入できないようにね」
ママの決然とした言葉に, 私の心に, かすかな光が灯る.
私はもう, 一人じゃない.
「ありがとう, ママ…」
私は小さく呟いた.
私の人生は, ここから変わるのだ.
「もう二度と, 涼太の言いなりにはならない」
そう心に誓った瞬間, 私の胸に, 新たな決意が宿った.
涼太の私物であるスマートフォンを強く握りしめ, 私は立ち上がった.
この婚姻は, 今日で終わる.
彼は, そのために私を利用した.
だが, 私もまた, 彼を利用してやるのだ.
私の手の中で, スマートフォンの画面が淡く光っていた.
次の瞬間, 私は涼太のスマートフォンを床に叩きつけた.
「さようなら, 涼太」