私は貝塚家の「耳の聞こえないお飾り」だった.
でも実は, 命がけの手術を受けて聴力を取り戻していたのだ.
彼を驚かせたくて, その秘密を隠していた.
その夜, 泥酔した婚約者の直也は私を抱きしめ, 耳元で熱っぽくこう囁いた.
「理央... 」
私の耳は, 彼が元恋人の名前を呼ぶ声を, 残酷なほど鮮明に捉えてしまった.
私はただの代用品だったのだ.
翌日, 何も知らない義妹や友人たちは, 私の目の前で堂々と私を嘲笑した.
「どうせ聞こえないから」と, 彼らは私を「不便な道具」扱いし, 理央の帰国を歓迎していた.
全ての悪意が, 回復したばかりの耳に突き刺さる.
彼のために聴力を取り戻したのに, 返ってきたのは裏切りと侮辱だけだった.
私はその場で婚約指輪を外し, 彼らの前から姿を消す決意をした.
数年後, 海外で成功を収め, 別人のように美しくなった私が帰国した時.
直也は顔面蒼白で, 必死に私にすがりついてきた.
「静穂, 誤解なんだ, 戻ってきてくれ! 」
私は冷ややかな笑みを浮かべ, 彼に告げた.
「私の耳はもう聞こえるの. でも, あなたのためじゃないわ」
第1章
私は決めたの. もう, ここにはいられない.
「そうかい... 」
陽斗おじい様の声は, 深い溜め息のように聞こえた.
彼の目は, 私を深く見つめていた.
まるで, 私の心の奥底まで見透かされているかのように.
それは, 私にとって唯一の安息だった.
この家で, 私を人間として扱ってくれた唯一の人.
「直也との結婚式の準備は, もう進んでいたはずだが? 」
彼の言葉は, 私の耳に冷たい石のように響いた.
結婚式.
かつては, 私の夢だった.
でも, もう違う.
「それも, もう必要ないわ. 」
私の声は, 私自身も驚くほど冷徹だった.
感情の起伏はない.
ただ, 事実を述べるだけ.
陽斗おじい様は, 再び深く溜め息をついた.
彼の肩は, 寂しそうに震えていた.
「すまない, 静穂. この家が, お前を深く傷つけた. 」
その言葉が, 私の心に小さな波紋を広げた.
謝罪.
それは, 私が最も求めていたものだった.
でも, もう遅い.
「お詫びではないが, 今後の生活は我々が全面的に支えよう. 」
彼はそう言って, 一枚の小切手を差し出した.
金額は, 私の一生を優雅に暮らせるほどのもので, 桁外れだった.
でも, 私の心は動かなかった.
お金.
かつては, それが必要だったかもしれない.
しかし, 今の私には, 何の魅力も感じさせない.
私はその小切手を, まるで空気のように通り過ぎさせた.
「もう, 結構ですわ. 」
私の心は, 完全に満たされていた.
過去への執着は, もう私の中にはない.
この家で, 私が果たすべき役割は, もう終わったのよ.
そう, 終わったの.
直也の健康管理.
貝塚家の家事の取り仕切り.
彼らが私に求めた, すべての役目.
私は, 十分に尽くしたわ.
私はもう, あの偽りの優しさに惑わされることはない.
二度と, この場所に戻ることはない.
私には, 新しい人生が待っているから.
古くて重たい鎖は, もう過去のもの.
私は, 自由に羽ばたきたい.
私の心は, 新しいメロディーを求めている.
「私への気遣いは, もう不要ですわ. 」
私はそう言って, 陽斗おじい様の目を見た.
「一つだけ, お願いがあります. 私の耳が聞こえるようになったこと. このことは, どうか誰にも言わないでください. 」
私の言葉は, 静かに, しかしはっきりと響いた.
彼の顔に, 驚きの色が浮かんだのが分かった.
陽斗おじい様は, 何も言わずに頷いた.
彼の目は, 私の新しい決意を理解しているようだった.
私は, 心の中で深く感謝した.
このおじい様だけは, いつも私の味方だった.
彼の沈黙が, 私をそっと包み込んだ.
私は, もう振り返ることはない.
私の未来は, ここにはないから.
数日前, 私はまだ, この貝塚家の「お飾り」だった.
直也の婚約者という名の, 便利な使用人.
耳が聞こえない私を, 彼らはそう扱った.
でも, 私は変わった.
あの夜, 頭に激しい痛みが走った.
それは, 私を苦しめてきた後遺症の最後の一撃だった.
そして, 闇の中から光が差し込むように, 音が戻ってきた.
世界が, 再び色を取り戻した瞬間だった.
私は, この秘密を誰にも言わなかった.
誰にも.
特に, 直也には.
それが, 私の最後の希望だったから.
彼の反応を見たかった.
私が聴力を取り戻した時, 彼はどんな顔をするのだろう?
喜んでくれるだろうか?
それとも, また私を失望させるのだろうか?
期待と不安が, 私の胸の中で渦巻いていた.
私は, 覚悟を決めていた.
どんな結果になろうとも, 受け入れる.
私には, もう失うものは何もなかったから.
手術台の上で, 私は全身の震えを必死に抑えていた.
医者の声が, 耳鳴りのように響く.
「この手術は, リスクが高い. 聴力を完全に失う可能性もある. 」
その言葉が, 私の心を深く抉った.
でも, 私は引き返せなかった.
直也が, 最近私を避けるようになったから.
私が, 耳が聞こえないから.
彼は, 友人に私のことを「不便な道具」と揶揄されたらしい.
その言葉が, 私の耳に届いた時, 私の心は砕け散った.
彼のために, この耳を取り戻したい.
彼のために, もう一度, ピアノを弾きたい.
その一心で, 私はメスを受け入れたのだ.
彼の愛を取り戻すために.
手術は, 奇跡的に成功した.
世界は, 再び音に満ちた.
鳥のさえずり. 風の囁き. そして, 私の心臓の鼓動.
すべてが, 新しい音楽のように聞こえた.
私は, この喜びを彼と分かち合いたかった.
彼に, 一番に伝えたかった.
サプライズにしたかったから, 彼の帰りを待った.
私の心は, 甘い期待で膨らんでいた.
彼が, きっと喜んでくれるはず.
そう信じていた.
私の人生は, もう一度, 輝きを取り戻すはずだと.
でも, その夜, 直也は泥酔して帰ってきた.
彼の足取りは, ひどくおぼつかない.
私は, 彼を支えようと, ベッドへ誘導した.
彼は, 私を抱きしめた.
その腕は, かつて私を優しく包み込んだ熱を失っていた.
彼の唇が, 私の耳元に近づく.
私は, 息を呑んだ.
彼が, 私の名前を呼んでくれると, 期待した.
でも, 私の耳に届いたのは, 全く違う名前だった.
「理央... 」
その瞬間, 私の全身が凍りついた.
回復したばかりの聴覚が, 残酷なまでにその名を正確に捉えた.
微かな, しかしはっきりとした, その震える声.
彼の腕の中で, 私はただの付属品だった.
直也は, 私を抱きしめながら, 須藤理央の名前を呼んだのだ.
私の体は, 石のように固まった.
心臓が, まるで誰かに鷲掴みにされたかのように, 激しく脈打った.
直也は, 私の変化に気づかない.
彼は, 欲望に溺れていた.
私の頭の中には, かつての記憶が蘇った.
彼が, 私に贈った指輪を, 何気なく外す仕草.
私は, それを「邪魔だから」と解釈していた.
なんて愚かだったのだろう.
彼は, 私をその女の代わりとして扱っていたのだ.
私が, 耳が聞こえなかったから.
私が, 何も言えなかったから.
彼は, 私を自由にできる道具だと思っていたに違いない.
須藤理央.
直也の元恋人.
国民的女優.
彼女は, かつて直也を深く傷つけ, 彼の元を去ったはずだ.
彼の心は, 深く絶望していた.
私は, 彼を救いたかった.
その傷を癒したかった.
自分を犠牲にしてでも, 彼を支えようとした.
でも, 彼は私を愛していなかった.
私の献身は, 彼にとってただの都合の良い存在でしかなかったのだ.
私は, 彼の隣で, 空虚な目をしていた.
「一体, 何のために... ? 」
私の喉の奥から, 苦い笑いが込み上げてきた.
私は, 彼の代わりだった.
彼の欲望を満たすための, 道具.
それが, 私の存在理由だったのだろうか.
屈辱が, 私の全身を焼き尽くす.
私は, 彼が眠りにつくのを, ただじっと待っていた.
彼の腕の中で, 私は完全に麻痺していた.
直也のスマホが, チカチカと光った.
液晶画面に表示された通知.
[須藤理央, 緊急帰国. 旧恋人との復縁も? ]
その文字が, 私の目に飛び込んできた.
直也の異常な行動の理由が, すべて明らかになった.
彼は, 理央の帰国を知り, 焦っていたのだ.
私を抱きしめながら, 理央の名前を呼んだのは,
彼の中には, 理央しかいなかったから.
私は, ただの都合の良い存在.
彼の孤独を埋めるための, 代用品.
私は, ベッドから静かに抜け出した.
震える手で, 陽斗おじい様の電話番号を探す.
「もしもし, おじい様. 私, 静穂です. 」
私の声は, ひどく掠れていた.