「おばあさま, 礼十郎様との婚約を解消したいのです. 」
5年間, 彼の全てを支え, 尽くしてきた婚約者, 坂田朋恵. しかし, 彼の初恋の相手・雅が現れた途端, その献身は無価値なものとされた.
「朋恵は俺を心から愛しているからな. こんなことで怒るような女じゃない. 」
リビングで抱き合いキスを交わす二人. 私を家政婦のように扱い, 挙句の果てには雅の策略に乗り, 私を悪女だと罵る礼十郎. 彼の心に, 私の居場所はもうなかった.
「この期に及んで, 幸江を盾に取るつもりか? 俺は, お前との婚約など, 最初から望んでいなかった! 」
彼の言葉が, 私の心を完全に砕いた. 私の5年間は, 一体何だったのだろう.
祖母の誕生日パーティーで, 私は彼の目の前で静かに婚約解消に同意した. そして, 彼との全てを断ち切り, この街を去ることを決意する.
第1章
坂田朋恵 POV:
「おばあさま, 礼十郎様との婚約を解消したいのです. 」
私の言葉は, 静かな応接室に冷たく響いた. おばあさま, 岸本幸江様は, 私がこの世で最も尊敬し, 愛する人. その顔に浮かんだのは, 深い悲しみと, 理解しがたいと言った表情だった. 薄い唇がゆっくりと開く.
「朋恵, お前は本当にそれで良いのかい? 」
その声は, いつも私を包み込んでくれる温かさではなく, どこか遠くから聞こえるような響きがあった. 私の心は, まるで氷の塊のように冷え切っていた. 五年という歳月が, まるで意味をなさなかったかのように.
「礼十郎が最近, 雅さんとばかり一緒にいることは知っている. お前の努力も, 陰で支えてきたことも, 私は誰よりも理解しているつもりだよ. 」
幸江様は, 私の手を握り, その温かさに少しだけ心が揺れた. 私のしてきたことが, 無駄ではなかったと, この人だけは知ってくれている. しかし, その事実さえも, 今の私には何の慰めにもならなかった.
「礼十郎は少し迷っているだけだ. 雅という昔の知り合いが突然現れて, 心が揺らいでいるのだろう. もう少しだけ, 待ってやることはできないのかい? 」
幸江様の言葉は, 私の心を試すように響いた. もうこれ以上, 何を待てというのだろう. 私の胸には, 冷たい風が吹き抜けていく感覚だけがあった.
「私がもう一度, 礼十郎と話し合って, 雅さんを遠ざけるように言ってやる. あと三ヶ月だけ, どうか考え直してくれないかい? 」
私は首を横に振った. その動きは, まるで操り人形のようにぎこちなかった. 私にはもう, 待つための気力も, 信じるための力も残っていなかった.
「いいえ, おばあさま. もう, 無理です. 」
私の声は, 私自身でも驚くほど冷静だった. その決意の固さに, 幸江様は目を丸くした.
「五年という約束の期限が, もうすぐ終わるのです. 」
その言葉を口にした瞬間, 私の脳裏には, 七歳の頃の記憶が鮮やかに蘇った. 私は母に連れられ, この豪奢な岸本家へと足を踏み入れた. 使用人の娘として, そして岸本家の家政婦の娘として.
幼い私は, 周囲の冷たい視線と, 使用人たちの陰口に晒された. 母はただ「おとなしくしていなさい」と繰り返すばかりで, 私の孤独を理解しようとはしなかった. 広い屋敷の中で, 私はいつも一人だった.
七歳の誕生日の夜, 私はひどいアレルギー発作を起こした. 誰もが私に気づかず, あるいは見て見ぬふりをした. 呼吸が苦しく, 意識が遠のいていく中で, 私の目に映ったのは, 心配そうに駆け寄ってくる幸江様の顔だった.
幸江様は, 私の命を救ってくれた. それ以来, 私の屋敷での扱いは少しずつ変わっていった. 私にとって, 幸江様は命の恩人であり, 唯一の理解者だった.
「礼十郎を助けてやってほしい. 五年でいい. 彼の心を取り戻してやっておくれ. 」
幸江様からその言葉を聞いた時, 私は何の迷いもなく頷いた. 私が礼十郎様を深く愛していたからではない. 幸江様への恩義と, この家での私の存在価値を見出したい一心だった.
だが, 愛だけではどうにもならないこともある. 五年という歳月は, 私にその残酷な現実を突きつけた.
礼十郎様は, 初恋の相手である雅さんの突然の失踪により, 心を病んでいた. 彼は塞ぎ込み, 食事もろくに摂らず, 寝たきりの日々を送っていた. 幸江様は, そんな彼を救ってほしいと私に懇願した.
「五年でいい. 彼が立ち直るまで, そばにいてやっておくれ. 」
あの時の幸江様の必死な眼差しが, 今も脳裏に焼き付いている. 幼い頃, 私を守ってくれた礼十郎様の姿が重なった. 彼は, 私にとっての太陽だった. あの暗闇の中で, 私に手を差し伸べてくれた唯一の光. だから, 私は迷わずその手を掴んだ.
婚約して以来, 私は礼十郎様の世話を焼くことに全ての時間を費やした. 彼が建築家としての才能を開花できるよう, 私は自分の夢を諦め, 経営学を学んだ. 陰で彼の事務所を支え, 彼の作品が正当に評価されるよう尽力した. 周囲からは「家政婦の娘が御曹司を誑かした」と陰口を叩かれたが, 私は気にしなかった.
礼十郎様は徐々に回復し, 社交の場にも顔を出すようになった. そして, 私の知らない女性と関係を持つようになった. それでも私は, 彼がいつか私のもとに戻ってくれると信じていた. 彼の浮気を嘲笑されても, 私は平気なふりをした.
「お前しかいないんだ, 朋恵. 」
彼の口から, かつてないほど優しい言葉が漏れた日もあった. その言葉を信じて, 私はまた, 彼の裏切りを許してしまった.
しかし, 雅さんが帰国した瞬間, 全てが変わった. 礼十郎様は, まるで憑き物が落ちたかのように, 雅さんの元へと吸い寄せられていった.
彼はもう, 私の電話に出ることもなくなった. たまに繋がっても, 不機嫌な声で「一体何の用だ」と私を責めた. 私の心は, そのたびに深く傷ついていった.
私の献身は, 雅さんの出現によって, 全て無に帰した. 私は, 礼十郎様の心の中で, 決して一番にはなれないという現実を突きつけられたのだ. 五年間の愛と努力は, 虚しい泡と消えた.
疲れた. もう, 疲れてしまった. 私はもう, 彼を愛し続けることができない. そして, 彼を祝福することしかできない. 私に残された道は, ここを去ることだけだった.