夫の潤治を庇って, 私は視力の大半を失った.
それでも, 彼を愛していた. 夫が秘書の栞音と体を重ね, 「あんな濁った目をした女」と私を嘲笑するのを目撃するまでは.
離婚を決意した矢先, 私のお腹に新しい命が宿っていることがわかった. しかし, その幸せも束の間, 逆上した栞音に階段から突き落とされ, お腹の子どもを失ってしまう.
愛も, 希望も, 未来も, すべてを奪われた. 私の心に残ったのは, 底知れぬ絶望と, 二人への燃え盛るような憎しみだけだった.
虚偽の懺悔を繰り返す潤治と, 私からすべてを奪った栞音.
あなたたちが築き上げたすべてを, この手で徹底的に破壊してやる. 私の人生を懸けた, 冷徹な復讐が今, 始まる.
第1章
奈津美 POV:
電話のベルが, しつこく鳴り続けていた. 夢と現実の狭間で, その音が耳の奥にへばりつく. まるで何か悪い予感を告げているかのようだった.
ベルは一度途切れて, すぐにまた鳴り始めた. その執拗さが, 私の胸を締め付ける. ベッドの隣で, 潤治が小さく身動ぎした.
「奈津美, 寝てるのか? 」
彼の声が, 静かな部屋に響いた. 私は目を閉じたまま, 息を潜める. 何も答えなかった.
潤治はゆっくりとベッドから起き上がった. 足音が遠ざかり, 寝室のドアがそっと開く. そして, バンという乾いた音がして, ドアが勢いよく閉まった.
あまりにも急な音に, 私の心臓が跳ねる. 潤治が慌てて出て行ったのが分かった. 私は迷わず, 彼を追うことを決めた.
真実を確かめたかった.
車を走らせた先で, 私は信じられない光景を目の当たりにする. 潤治が, ある女性と親密に抱き合っていたのだ.
その女性は, 早見栞音. 彼の秘書だった.
彼女が私たちの生活に現れたのは, もう二年も前のことだ. 潤治は彼女を「優秀な人材」だと褒め称えていた. 私は夫を信じていた. それなのに.
栞音は潤治に甘えるように囁き, 自分の魅力を問いかけていた. 「私, どうかな? 潤治さんが夢中になるほど可愛い? 」
潤治は満足げに頷き, 彼女を抱き寄せた. その顔には, 隠しようのない笑みが浮かんでいた. 私の心は, 冷たい氷で覆われる感覚に陥る.
「潤治さん, 全然電話に出なかったね. どうせ, あの女と一緒だったんでしょ? 」
栞音が, わざとらしく不満を口にした. 私の存在を, 彼女は知っている. 確信した.
潤治は嘲るように鼻で笑った. 「まさか. あんな濁った目をした女といるわけないだろう. 見ていて気分が悪くなる」
その一言が, 私の胸を深く抉った. 私の視力を嘲笑する言葉. それは, これまでで一番残酷な刃だった.
栞音は満足げに潤治の首に腕を回し, 唇を重ねた. 二人はまるで当然のように, 彼らの私的な空間へと消えていった.
私はそこに立ち尽くすしかなかった. 体中の血液が凍りつき, 寒さが四肢から全身へと広がっていく.
魂が抜けたように, ふらふらと家に帰った. 潤治の言葉が, 耳の奥で何度も反響する.
「濁った目」「気分が悪くなる」.
この目は, あなたを守った代償として, 光を失った目なのに.
私の人生は, いつも不幸と隣り合わせだった. 幼い頃, 両親は離婚した. 母は父に捨てられ, 絶望の淵に立たされた. その後, 母は潤治の家で家政婦として働き始める.
それが, 潤治と私の最初の出会いだった. まだ幼かった潤治は, 私に優しく接してくれた.
しかし, その三年後, 母は自ら命を絶った. 私は再び, 一人ぼっちになった.
潤治はそんな私を哀れみ, 家に引き取ってくれた. 彼は私の手を握り, 力強く言った. 「奈津美, 心配いらない. 僕がずっと君を守る. ここが君の家だ」
その言葉は, 当時の私にとって唯一の光だった. 私は潤治に, 純粋な愛情を抱き始める. けれど, 自分の境遇を恥じ, その気持ちを必死で隠した.
数年後, 潤治は建築家として独立し, 若くして成功を収めていた. しかし, その過程で多くの敵を作った. 彼のビジネスは, 常に危険と隣り合わせだった.
ある日, 建設現場での崩落事故が発生した. 潤治は, 設計上のミスを隠蔽しようとしていた. その隠蔽工作が露呈しそうになり, 彼は窮地に立たされていた.
私は彼の危機を救うため, 身を挺して彼を庇った. それが, 私の視力の大半を奪う大怪我となった.
病院のベッドで目覚めた私に, 潤治は跪いてプロポーズした. その時の彼は, 心から私を愛してくれているように見えた. 彼は私の希望だった.
私はそのプロポーズを受け入れた. それが, 私の人生のすべてを彼に捧げる始まりだった.
しかし, 今になって思う. 彼の愛は, 罪悪感と打算に満ちたものだったのではないかと. 彼はいつも, 私を絶望の淵に突き落とし, その後に甘い言葉で救い出す. 私はそのサイクルに陥り, 抜け出せずにいた.
夜が明ける頃, 潤治が家に戻ってきた. 彼は, 部屋の明かりが灯っているのを見て, 少し驚いたようだった.
しかし, その驚きの表情はすぐに消え失せた.