「あなた, 邪魔よ. そこに突っ立っていないで, さっさと退いてちょうだい. 」
声の主は, 柿沼琴美. 彼がここ数ヶ月, 愛人として囲っている若い女優だった. 彼女は私の家だというのに, 自分の家のように振る舞い, 私の目の前で彼の腕にぴったりと寄り添っていた.
私は何も言わず, ただその場に立ち尽くしていた. 体が, まるで重い鉛でできているかのようだった.
「聞こえなかったの? この耳, 飾りかしら? 」 琴美はそう言って, 私の肩にぐいとぶつかった. 故意に.
彼は, その光景を私の隣で, まるで観客のように見ていた. 何も言わず, ただ静かに. その沈黙が, 私をさらに深く突き刺した. 彼の無関心は, 琴美のどんな言葉よりも, 鋭い刃だった.
「あなたみたいな女, 邪魔なだけよ. この家から消えてくれたら, どれだけ清々するか. 」 琴美は勝ち誇ったように, 私の耳元で囁いた. その声には, 底意地の悪さが滲み出ていた.
私は, 息をすることさえ忘れていた.
その夜, 彼らは私の目の前で, リビングのソファで抱き合った. 琴美の嬌声が, 私の乾いた心臓を突き刺した. 私は, まるでそこにいないかのように, ただ静かに, その光景を見ていた.
翌朝, 弘道は食卓で, いつものように冷たい声で言った.
「千由紀, 今夜の夕食はいつもより豪華にしてくれ. 琴美の友人が来る. 」
私は, 皿に盛られたパンをゆっくりと見つめた. そのパンが, 彼の言葉と同じくらい冷たく感じられた.
「嫌よ. 」
私の声は, 私自身も驚くほどはっきりと, 彼の耳に届いた.
食卓が一瞬, 静寂に包まれた. 彼が, まるで初めて私を見たかのように, ゆっくりと顔を上げた. その目には, 驚きと, そして不快感がはっきりと見て取れた.
「何だと? 」
彼は信じられないという顔で, 私を見返した. 8年間, 私は彼のどんな要求にも「はい」と答えてきた. 彼の要望は, 私にとって絶対だった. それが, この契約結婚の条件だったから.
けれど, その契約は, あと数日で終わる. 自由へのカウントダウンは, もう始まっていた.
「嫌だと言ったのよ, 弘道さん. 」 私はもう一度, 今度は少しだけ声を上げて繰り返した.
彼の顔は, 怒りで染まり始めた.
「お前は, この家に来てから, 一度たりとも私の言葉に逆らったことはないだろう. 何を勘違いしている? 」 彼の声は, 低く, 威圧的だった. 「お前のような女に, 何かを拒否する権利があると思っているのか? 」
私は何も答えなかった. ただ, 彼の目を見つめ返した. その目には, もう何の感情も宿っていなかった.
「おい, 千由紀! 聞いているのか! 」 彼は苛立ちを隠せない様子で, テーブルを叩いた.
私は, 彼の怒声に動じることなく, 静かに立ち上がった.
「弘道さん, 私にはもう行くべき場所があるのよ. 」
私の言葉は, まるで彼の存在を消し去るかのように, 静かに, しかし明確に響いた.
「この期に及んで, どこへ行くというんだ? 」 彼の鼻先が, まるで私を侮辱するかのように, ふっと持ち上がった. 「お前がこの星野家を出て, 一体何ができる? どこへ行ける? 」
私は彼の言葉に, 何の感情も抱かなかった. かつては傷ついただろうか. かつては, 彼の言葉一つで, 私の世界は崩れ落ちたはずだ. けれど, 今は違った. 私は, もうこの男の言葉に, 心を揺さぶられることはなかった.
「ふん, 答えられないか. 当然だ. 」 彼は吐き捨てるように言った. 「お前は私の庇護の下で, この8年間, 何の苦労もなく暮らしてきただけの存在. 世間知らずの箱入り娘に, 一体何ができる? 」
彼の言葉は, まるで私という存在を否定するかのように, 私の心に深く突き刺さった. しかし, 私の顔には, 何の感情も浮かんでいなかった. 私はただ, 静かに彼を見つめ返した.
「弘道さん, あなたは私を, ずっとそうやって見てきたのね. 」
私の声は, ひどく冷たかった. 彼は, その冷たさに一瞬怯んだように見えたが, すぐに持ち前の傲慢さでそれを打ち消した.
「何が言いたい? 」
「何も. 」 私は首を横に振った. 「もう, 何も言うことはないわ. 」
私の言葉に, 彼はさらに苛立ちを募らせた.
「おい! 千由紀! どこへ行くつもりだ! 」 彼は大声で私を呼び止めた.
私は振り返らず, ただ静かにその場を去ろうとした. その時, 琴美が寝室から現れた. 彼女は, 私の存在を無視するかのように, 弘道の隣に歩み寄った.
「弘道さん, どうしたの? 喧嘩でもした? 」 琴美は甘えた声で弘道に寄り添い, ちらりと私を睨んだ. その目は, 私の敗北を確信しているようだった.
「大したことじゃない. 世間知らずの女が, 少しばかり癇癪を起こしただけだ. 」 弘道はそう言って, 琴美の頭を撫でた.
琴美は, 私に向かって, 勝ち誇ったような笑みを浮かべた. その笑みは, 私の心に何の痛みも与えなかった. ただ, それが, 私の人生から消え去るべき, 最後の影であるかのように感じられただけだった.
「お前は, さっさと私の言うことを聞け. 」 弘道は最後に, 私に向かって命令した.
私は, 彼の言葉を無視して, 自分の部屋へと向かった. その背中に, 琴美の嗤い声が聞こえた.
「ねえ, 弘道さん. あの女, 本当に役立たずね. 私がいたら, 全部うまくいくのに. 」
「ああ, そうだな. 」 弘道はそう答えていた.
私は自室に戻り, 窓の外を眺めた. 外は, もうすっかり暗くなっていた. 私は, 一体どこへ行けばいいのだろう. この8年間, 私は彼の妻として, 彼の家の置物として生きてきた. 私には, 自分の人生はなかった.
「お前のような女に, 一体何ができる? 」
彼の言葉が, 私の中でこだました. 私は, 本当に何もできないのだろうか?
私がかつて, どれほどの情熱を秘めていたか, 彼は知る由もなかった. 宝飾デザイナーになるという夢. それは, 父の会社の経営危機によって, 私が弘道との結婚を受け入れることになった時, 捨て去った夢だった.
父の会社を救うため, 私はこの政略結婚を受け入れた. 弘道は, 私の父の会社に巨額の融資をしてくれた. その代わり, 私は彼の妻となり, 5年間, 彼の言うこと全てに従うという契約を交わした. 5年が過ぎた後も, 弘道は私を離そうとはしなかった. 私が彼の側で, 彼の母の介護をしていたから. 私は彼の家の, まるで優秀な家政婦だった.
私は, 彼の亡き恋人の影を追いかける彼の姿を, ずっと見てきた. 彼は, 私を一度も愛してくれなかった. 私を, ただの代理品としてさえ見てくれなかった.
彼は, 私を「置物」のように扱った. 感情も, 才能も, 全てを見過ごした. 私が宝飾デザインの夢を諦めず, 密かに才能を磨き続けていたことなど, 知る由もなかっただろう. 平山幸恵という, 世界的に有名なジュエリーデザイナーの友人が, 私の才能を見抜き, 私を力強く支えてくれたことも.
そして, 琴美. 彼女は, 彼の亡き恋人に瓜二つだった. だから彼は, 琴美を愛人として家に連れ込んだのだ. 彼女は, 弘道にとって, 亡き恋人の代替品でしかなかった.
「私には, もう行くべき場所があるのよ. 」
私の言葉は, 嘘ではなかった. 私は, この8年間, 来るべき日のために, 密かに準備を進めてきた. もうすぐ, この契約は終わりを迎える. 私に与えられた猶予は, あとわずかだ. 私は, もう二度と, 彼の言葉に心を砕かれることはないだろう.
「弘道さん, あなたは私を, ずっとそうやって見てきたのね. 」
私の言葉を, 彼は理解できなかっただろう. 彼が理解できるのは, 彼自身の感情だけだ.
私の携帯電話が震えた. 画面には, 彼からの着信が表示されていた. 私は, その電話に出ることはなかった.
「千由紀! どこだ! まさか, 本当に家を出たのか! 」
彼の声が, 電話の向こうから聞こえてくるようだった. しかし, 私にはもう, 彼の言葉は届かない. 私は, もうこの家にはいない. 私の心は, この場所から, もう遠く離れていた.
私は, 静かに立ち上がり, リビングのドアを開けた. まだ, 彼と琴美の話し声が聞こえる. けれど, その声は, もう私には関係のない雑音だった.
私は, もう一度, 彼の電話が鳴るのを感じた. けれど, 私はその電話を, もう手に取ることはなかった.
「私の行くべき場所は, 東京ではない. この国ではない. 私の行くべき場所は, もっと, ずっと遠い場所よ. 」
私は静かに, バッグを手に取った. そこには, 私の全ての過去と, 未来への希望が詰まっていた.
私は, もう歩き出していた.