「……気持ちいいか?」
低く掠れた声が耳に流れ込む。痺れるような響きに、如月詩織の呼吸がわずかに乱れた。
「和臣、もうやめて……お願い」
詩織は喘ぎながら、掠れた声で懇願する。
男は意味ありげに笑った。「従弟の婚約者の望みだからな」
従弟の婚約者?
詩織は息を呑んだ。その声が、どこかおかしいことにようやく気づく。
顔を向けて相手を確かめた詩織は、愕然とした。
明るい照明が、男の端正で精悍な顔立ちを照らし出す。その下には、がっしりとした胸板と広い肩があった。
その男は、婚約者の桐生和臣ではなかった。家業を継がずにパイロットになった、和臣の従兄――桐生彰人だ!
「どうして、あなたが……」
彼女は全身を強張らせ、震える手で彼を突き放そうとした。
だが、震える手が男の熱い胸に触れた途端、彰人はたやすくその手首を掴み、上から体を押し付けてきた。
詩織は唇をきつく噛み締め、口の中に血の味が広がった。
あの酒を飲んだ直後から体がおかしくなり、個室から出てきた「和臣」の姿を見て、朦朧としたまま彼に抱きついてしまったのだ。まさか、それが彼の従兄だったとは!
「あなただなんて、知らなかった!」
掠れた声で、目を真っ赤にしながら叫ぶ。「私の声でわかったはずよ。なのに、どうして手を出したの!」
彰人は薄く笑い、大きな手で彼女の顎を掴んだ。悪びれもせずに言う。「記憶違いじゃなければ、おまえが呼んだのは『ダーリン』だったよな」
「それに、こっちが口を開く前にキスをせがんで、好き放題触ってきたんだろ。前から俺を狙っていたんじゃないって、どうして分かる?」
詩織は怒りに全身をわななかせ、大粒の涙をこぼしながら、手を振り上げた。 彼の頬を叩くために。
「このケダモノ……!警察を呼んでやる!絶対に許さないんだから!」
だが、その手が振り下ろされる前に、彰人は彼女の手首を掴んで下に押さえつけた。
「警察を呼ぶのは構わない。廊下の防犯カメラを見れば、おまえが自分の意思で入ってきたのは明らかだ。俺が無理やりしたと立証するのは難しいだろうな」
彼の目は嘲るように細められ、荒れた指の腹が彼女の唇をなぞる。「だが警察が来たらどうなる?俺の従弟は、自分の従兄を誘惑するような婚約者を欲しがるだろうか。その時、あいつがおまえの実家――如月家の面倒を見ると思うか?」
詩織の顔から血の気が引いた。
彰人の言葉が嘘でないことは痛いほどわかっていた。だが、このまま泣き寝入りするしかないのだろうか?
和臣と婚約して三年になるが、二人はまだ体の関係を持っていなかった。
それに、最近会社の経営が悪化し、資金繰りは火の車だった。父は契約詐欺で訴えられ、多額の資金援助がなければ立て直せない状況だ。
このタイミングで和臣に知られれば、実家が破産し、父が刑務所に入るのを、ただ見ていることしかできなくなる。
母はもういない。母が遺した大切なものを壊すわけにはいかないし、父まで失うわけにはいかなかった。
さんざん葛藤した末、詩織は口に広がる血の味を無理やり飲み込み、掠れた声で言った。「わかりました……では桐生さん、このことは、なかったことにしてください。これっきり、お互い関わらないということで」
そう言い放つと、彼女は冷たい顔で彼を突き放し、服を着ようと身を起こした。
だが、その時だった。外から足音が聞こえてきた。
「なあ、桐生さん、あんな綺麗な婚約者がいて、よく結婚しないでいられるな?」
和臣の、少し酔って呂律の回らない声が聞こえてきた。「面白いか? 婚約してもう長いんだぞ。誰だって飽きるだろ。おまけに実家は破産寸前だ。爺さんがうるさくて、俺が不実だと思われるのが嫌だから付き合ってるだけで、本当は相手するのも面倒なんだよ」
「じゃあ、抱いてから捨てりゃいいじゃないか。 あんな極上、他の男にくれてやるのか?」
彼らは個室に誰かいるとは気づかず、傍若無人に会話を続けている。
詩織の体は、その言葉にこわばった。
(やはり自分の考えていた通りだった。和臣は……もう、私のことなんて好きじゃなかったんだ。)
彼女はきつく拳を握った。今すぐ飛び出して彼の頬を張ってやりたかったが、そんな勇気はなかった。
自分自身も過ちを犯した後だ。見つかれば、もっと立場が悪くなる。
桐生グループからの発注でなんとか持ちこたえているが、それがなければ会社はとっくに潰れている。和臣の婚約者という立場を失えば、如月家は終わりだ!
胸に突き刺さる痛みに耐えながら、彼らが去るのを待ってからそっと出ようとした。だが、外の男が煙草に火をつけた。
その匂いが流れ込んできて、彼女はむせて激しく咳き込んでしまった。
外で話していた二人が、ぴたりと静まる。しばらくして、和臣のためらいがちな声が聞こえた。「……詩織か?」