「このドレスを着れば、天闕財閥の女主人になれるとでも思ったか」
重い扉が蹴り開かれ、次の瞬間にはもう、彼女の目の前に立っていた。
狩野隼人。天闕財閥の総帥。今日から、結菜の夫となる男だ。
窓の外では、豪雨が吹き荒れている。
廊下の光が彼の背後から差し込み、男の顔は依然として影の中にあった。
結菜は正座で痺れた両脚に力を込め、ベッドの柱にすがって立ち上がった。
「狩野さん。この結婚は、私の意志では――」
「黙れ」
言い終わる前に、硬い指が彼女の顎を掴み上げた。
爪先立ちになる。顎の骨が軋むほどの力で、顔を覗き込まれる。
「杉本家は、こんな出来損ないを寄越して、俺を侮辱する気か」
隼人の視線が、結菜の頬を舐めるように動いた。
奇病で腫れ上がった顔だ。
鏡を見るたび、自分でも目を逸らしたくなる顔を、彼は露骨に蔑んだ。
「……見苦しい」
そう吐き捨てて、手を振り払われた。
結菜は床へ崩れ落ちた。擦りむいた肘から、じわりと血が滲む。
痛みより、屈辱のほうが深かった。
内ポケットから白い絹のハンカチを出し、隼人は指先を念入りに拭う。
汚れを落とすような手つきだった。
そして、そのハンカチを結菜の顔へ投げた。
「東館から一歩も出るな。俺の許可なく部屋の外へ出ることは許さん」
床に手をついたまま、結菜は叫んだ。
「どうして私を閉じ込めるんです! 私だって、無理やりここに送られたんです!」
隼人が振り返る。
「被害者面をするな。お前の実家が卑劣な罠を仕掛けて、花奈を追い出したんだろうが」
栗原花奈。
その名を聞いた瞬間、胸の奥がずきりと痛んだ。
杉本家の養女で、隼人の初恋の相手だと聞かされている。
だが、あれは嘘だ。
結菜を身代わりに押し込み、自分だけ安全な場所へ逃げたのは、ほかでもない花奈だった。
すべて、あの女が仕組んだ罠だ。
それなのに、この男の目には何も映っていない。
「いいか。花奈に少しでも良からぬ企みを抱いたら、死ぬより惨めな目に遭わせてやる」
隼人は振り向きもせず、扉へ向かった。
「せいぜい長く生き延びることだな。俺の屋敷を血で汚すな」
バタン、と重い音がして、部屋に雨の音だけが残った。
スマートフォンを取り出す。圏外だった。
実家にかけても同じ答えが返ってくるだけだ。用済みの娘に、帰る場所はない。
姿見の中の自分を見た。
腫れ上がった顔。乱れた髪。血の滲んだ肘。
安物のドレスだけが、白い。
部屋の隅に、大理石の飾り柱がある。
結菜はゆっくりと立ち上がった。
――これで、終われる。
目を閉じて、柱へ身を投げる。
鈍い衝撃。額が割れ、熱いものが視界を赤く染めた。
糸の切れた人形のように、結菜は血溜まりの中へ崩れ落ちた。
意識が、深い闇へ沈んでいく。
その三秒後、血溜まりの中で、結菜の指先がぴくりと動いた。