「……気分はどうだ?」
低い声が鼓膜を揺らす。長沢彩佳はゆっくりと目を開けた。
視界が真っ白だ。鼻をつく消毒液の匂い。
ああ、病院か。
私は過去に戻ってきたんだ。
家族の悲劇が起こる、ちょうど三年前のあの日に。
ベッドの傍らには、兄の長沢景が座っていた。
相変わらず人形のように整った顔立ち。けれど、その目に温度はない。
彩佳の胸に、ずしりと重い絶望がのしかかる。胃が冷たいもので満たされていく感覚。
【この人だ】
【私の大好きなお兄ちゃん】
【未来で、私のせいで金子藍の信奉者に刺されて】
【雨の中で独りぼっちで死んでいく人……】
「彩佳?」
景が再び呼びかける。その声は事務的な響きしかしなかった。
何か言わなければ。警告しないと。
彩佳は口を開こうとしたが、喉がひどく乾いていて、ひゅうと息が漏れるだけだった。
彼女は力なく首を横に振る。
【ああ、だめだ。今の私はただの病人】
【何を言っても信じてもらえない】
【彼の目には、私はまだただのわがままな養女なんだろうな】
【だって、もうすぐ“本物の令嬢”の金子藍が登場するんだから】
景が手を伸ばす。乱れた布団を直そうとしたのだろう。
その指先が偶然、彩佳の額に触れた。
その瞬間。
【お兄ちゃんなんて、典型的な当て馬!】
【金子藍にいいように使われて、最後は会社まで乗っ取られるんだから!】
透き通った女の声が、景の頭の中に直接響いた。
景の動きがぴたりと止まる。
彼は反射的に病室を見回した。だが、ここにいるのは自分と妹の二人だけだ。
視線を彩佳に戻す。
彼女は蒼白な顔で、悲しそうな目をしているだけ。唇は動いていない。
幻聴か。最近、仕事で疲れているせいだ。
彩佳の口元が、ほんのわずかに歪む。景には、それが自嘲の笑みに見えた。
【ほら、やっぱり迷惑そうな顔してる】
【そうよね。私みたいな養女のために、大事な後継者披露パーティーを延期させたんだから】
【ライバルの三浦につけ入る隙を与えちゃった】
景の瞳孔が急激に収縮した。
後継者披露パーティーの延期。
その事実は、両親と秘書の古川以外、誰も知らないはずだ。
なぜ、今しがた意識を取り戻したばかりの彩佳が、それを知っている?
彼は平静を装い、そっと手を引いた。
声が、自分でも驚くほど掠れていた。
「……気分はどうだ?どこか痛むか?」
彩佳は弱々しく彼を見つめる。声にならない心の叫びが、彼女の中で渦巻いていた。
【気分が悪いのは私だけじゃない!】
【私たち家族全員よ!】
【この三年後、うちは破産して、お父様は過労死、お母様は心を病んで、あなたも殺されて】
【私はどこかの知らない男に売られるのよ!】
その膨大な情報の奔流が、鉄槌のように景の脳を殴りつけた。
ズキンとこめかみが痛む。
彼は額を押さえ、自分を無理やり落ち着かせようと深く息を吸った。
これはなんだ。
妹の心の声だとでもいうのか?
景は試すように尋ねた。
「悪い夢でも見たのか?」
彩佳の目がわずかに揺れる。
彼女はこくりと頷いた。だが、心の中では激しく否定していた。
【夢じゃない。これが私たちの未来なの!】
その明確な反論を、景ははっきりと「聞いた」。
もう幻聴では済まされない。
――そのとき、彩佳は乾いた唇をなんとか動かした。
「お兄ちゃん……夢を見たんだけど。私たち家族の未来についての……ちょっと怖い夢?」
掠れ声で彼女は言った。
景の胸がざわりとする。
彼の背筋を冷たい汗が伝う。
景は決断した。有無を言わせぬ口調で妹に告げる。
「体調が戻ったら、精密検査を受けるぞ。脳神経外科と精神科だ」
「精神科」という言葉に、彩佳の体がびくりと震えた。
その目に、「やっぱりそうなるんだ」という諦めの色が浮かぶ。
【その自嘲的な表情を見て、景の胸がちくりと痛んだ。しかし、彼はその感情をすぐに押し殺した。】
「念のためだ。考えすぎるな」
その時、コンコンとドアがノックされ、医師が回診に入ってきた。
二人の会話は中断される。
景は一歩下がり、冷静に彩佳の様子を観察した。
脳内の「生放送」はまだ続いている。
【だめ。このままじゃいけない】
【まず運転手の小林さんをなんとかしないと】
【あの人はギャンブル狂で、もうすぐ借金のかたに金子藍に買収されるんだから……】
景の視線が瞬時に鋭くなった。
運転手の小林?
あの一見人良さそうな男がか?
彼はその名前を脳裏に深く刻み込んだ。
医師の診察が終わり、彩佳の体はもう問題なく退院できるとのことだった。
景は事務手続きを済ませると、まだふらつく彩佳の腕を支え、病室を出た。
彼の頭の中は混乱と疑念で満ちていた。
だが、まず一つ確かめなければならないことがある。
この不可解な現象が、本物かどうかを。