年支え続けた婚約者が、初恋の女に5億円の豪邸を買い戻していた。
ドレス試着の日、彼は私を置き去りにし、12時間も失踪。追い打ちのように激しい腹痛が私を襲う。震える手で電話をかけると、通話口から聞こえてきたのは、初恋の女の勝ち誇った声だった。
「直樹は今、私の隣で眠っているのよ。私たちの新しい家でね」
土砂降りの雨の中、真実を確かめに豪邸へ向かった私を待っていたのは、彼女を庇って私を突き飛ばす彼の姿だった。その衝撃で、お腹に宿していた小さな命が、静かに消えた。
冷たい手術台の上で、私の5年間も、愛も、すべて死んだ。
私はもう、彼を見ない。今度こそ、自分のためだけに生きる。
第1章
―― 中西美月 ――
結婚直前、私は婚約者の松浦直樹が五億円を投じて、彼の初恋の人である元令嬢の喜多村百合菜の実家の豪邸を買い戻したことを知った。それは、私たちの未来を壊す序章だった。
朝の光が差し込むリビングで、私は直樹のために朝食を準備していた。彼の好きなトーストの焼き加減を調整し、淹れたてのコーヒーをカップに注ぐ。直樹はITベンチャーの社長として成功し、私たちは都心のタワーマンションで五年間同棲していた。彼の成功は私の支えなしにはありえなかったと、彼は何度も言っていた。私もそれを信じていた。
「ねえ、美月、今日の昼は何か予定ある?」
直樹の声が背後から聞こえた。振り返ると、彼がカジュアルなシャツを着て立っている。彼の瞳はいつも私に向けられていた。
「ええ、今日はウェディングドレスの最終フィッティングよ。直樹、あなたも来るって言ってたでしょう?」
私は微笑んで答えた。来月には結婚式を控えている。
「ああ、そうだったな。もちろん行くよ。美月のウェディングドレス姿、早く見たい」
彼はそう言いながら、私の頬にキスをした。そのキスは温かかった。しかし、最近、彼の周りではある噂が囁かれていた。直樹の初恋の人、喜多村百合菜のことだ。かつては華やかな生活を送っていたお嬢様だが、実家が破産し、海外から帰国したらしい。友人の間で彼女の話題が出ると、皆は面白おかしく彼女の没落を嘲笑した。私はその会話に加わらなかった。ただ、複雑な気持ちで耳を傾けた。
朝食を終え、直樹がコーヒーを飲んでいる時、私はさりげなく口を開いた。
「そういえば、最近、喜多村さんの話を聞いたわ。実家が大変なことになったらしいけど、直樹は何か知ってる?」
私の言葉に、直樹はカップを置いた。彼の表情は一瞬硬くなったように見えたが、すぐにいつもの落ち着いた顔に戻った。
「ああ、少しはね。昔の知り合いだし。だが、もう僕とは関係ないことだ」
彼はそう言って、肩をすくめた。その態度からは、本当に興味がないように見えた。
「そう。良かった。正直、少し心配だったの」
私はそう言うと、直樹は私の手を取った。
「美月、君が心配するようなことは何もない。僕は君だけを愛している。過去のことはもう終わったことだ」
彼の言葉は真っ直ぐで力強かった。私は彼の言葉を信じた。彼の手の温かさは、私を安心させた。私は彼に全てを捧げてきた。私の人生は彼と共にあると信じていた。彼の言葉は、私の心に深く染み込んだ。
「ありがとう、直樹」
私はそう言って、彼の手を握り返した。
ウェディングドレスの試着の時間までまだ少しあった。私は寝室に戻り、着替える準備を始めた。鏡の前で、自分の体形をチェックする。この日のためにダイエットも頑張った。直樹が喜んでくれることを想像すると、胸が高鳴った。
リビングに戻る途中、ドアの隙間から直樹が見えた。彼はソファに座り、タブレットを膝の上に置いていた。いつもは忙しく仕事をしているか、私と話している彼が、珍しく一人で静かに何かを考えている。その姿は、私には少しだけ見慣れないものだった。彼の表情は、何か深いものに沈んでいるように見えた。
私は彼の隣を通り過ぎようとした時、ふと彼のタブレットに目が留まった。画面はオフになっていたが、私は理由もなくそれを手に取りたくなった。彼の珍しい沈黙が、私の心に小さな波紋を立てた。私はそっとタブレットを手に取った。画面をオンにすると、パスワードはすでに解除されていた。直樹は私を信頼していたから、私に隠すことは何もないはずだ。
画面には、銀行の取引履歴が表示されていた。最近の取引がずらりと並び、その中に異質なものが一つだけ飛び込んできた。
「五億円」
その数字に、私の呼吸が止まった。まさか、こんな大金が動くなんて。私の心臓が激しく脈打った。手が震え、タブレットを落としそうになった。何かの間違いだと思いたかった。
そして、その取引の備考欄。そこには、忘れられない文字が並んでいた。
「喜多村家豪邸買い戻し」
その文字が目に飛び込んできた瞬間、私の世界は一瞬で崩れ落ちた。頭の中が真っ白になり、全身から血の気が引いていくのが分かった。画面から放たれる光が、まるで私の目を抉るかのように痛んだ。心臓が凍りつき、まるで時間が止まったかのようだった。
「美月、何をそんなに驚いているんだ?」
背後から直樹の声がした。彼の声は、いつもより少しだけ落ち着きがないように聞こえた。私の体は恐怖と衝撃で完全に硬直した。
私は素早く画面をオフにし、タブレットをソファに置いた。何事もなかったかのように、私はゆっくりと彼を振り返った。私の顔はきっと、平静を装うことに必死だっただろう。
「ううん、何でもないわ。ただ、ウェディングドレスの試着、楽しみだなって思って」
私はそう言って、無理に笑顔を作った。私の声は、震えていなかっただろうか。
「そうか。僕も楽しみだよ」
直樹はそう言いながら、ポケットからスマートフォンを取り出し、テーブルに置いた。彼は私の様子に気づいていないようだった。
彼は私に近づき、そっと私の体を抱きしめた。彼の腕が私の腰に回る。私は彼の胸に顔を埋めた。彼の体温と心臓の鼓動が私に伝わってくる。その温かさは、いつもの心地よいものとは違い、私の心を締め付けた。私の心の中では、五億円と「喜多村家豪邸買い戻し」の文字が、繰り返し現れては消えていた。
私は彼の抱擁の中で、この疑惑をどうすべきか考えた。問い詰めるべきか、それとも黙っておくべきか。私の心は激しく揺れ動いた。しかし、私はまだ彼を信じたい気持ちがあった。これまでの五年間の積み重ねを、たった一つの取引記録で壊したくなかった。私は、この疑問を心の中に深く押し込めた。今はまだ、真実を追及する時ではない。私はその場をしのぎ、彼を信じ続けることを選んだ。けれど、胸の奥に刺さった小さな棘は、確実に私の心を傷つけ始めていた。