「天さん、さくらちゃんに婚約者の婚礼衣装を作らせるなんて、バレたらどうする気?」
会員制クラブの個室の前で立ち止まった流川さくらは、息を呑んだ。
半月前、酒井天から伝統の婚礼衣装を作ってほしいと頼まれた。「友人の木村あんが結婚するから」と。
丸十日も徹夜を重ね、一針一針心を込めて吉祥の龍鳳を縫い上げた。
その「友人」が、まさか彼の婚約者だったなんて。
十九歳から二十四歳まで、天のそばに寄り添って六年。すべてを賭けてきた。
家柄の差があまりに大きいことは分かっていたからこそ、結婚の二文字を口にすることなく、ただじっと待っていた。
蘇州刺繍のアトリエを軌道に乗せ、胸を張って彼の隣に立ちたかった。
天は結婚したくなかったわけではない。
自分と結婚する気など、最初から微塵もなかっただけなのだ。
さくらは口元を歪め、自嘲気味に笑った。
愛されていないなら、それまでだ。この大博打、彼女の負けだった。
踵を返して立ち去ろうとした瞬間、天の声が漏れ聞こえてきた。
「あいつは何も知らんよ。仮に知ったところで、どうこうできるわけないだろ」
「あの小さな刺繍アトリエはうちが食わせてやってるようなもんだしな。それに母親の腎臓だって、二回も適合したのに俺が握りつぶしてやった。俺の許可なしに、この桜京市で誰が手術できるってんだ?」
部屋の中から、どっと下品な笑い声が湧き上がった。
「さすが天様、籠の鳥の飼い慣らし方をよく分かってらっしゃる! 恐れ入りましたよ」
「そこまでえげつない手を打っておいて、相手には恩人面できるんだからな……」
さくらはその場に縫い止められたように立ち尽くした。
一年前、母が尿毒症と診断された。自分の腎臓を提供しようとしたが、適合検査で弾かれた。
病室の前で泣き崩れた自分を抱きしめ、「いい子だ、さくら。金なら心配いらない。ドナーは俺が必ず見つけるから、お母さんは絶対に大丈夫だ」と囁いてくれたのは天だった。
それを唯一の希望だと信じて、苦しい一年を耐え抜いてきたというのに……命の綱を握りつぶし、長引かせていたのは彼自身だったのだ。
人の命を、自分を支配するための道具にしていた。激しい怒りが五臓六腑を焼き尽くしていく。
六年間、自分はどれほど愚かだったのか。
そのとき、甲高い着信音が鳴り響いた。
『桜京市総合病院です! 透析中のお母様、小野ちはるさんが血栓による閉塞を起こしました。一刻を争う危険な状態です!』
頭の中が真っ白になった。天に詰め寄る余裕などない。さくらはエレベーターへと走り出した。
病院に駆けつけると、母はすでに血管造影室へと運び込まれるところだった。看護師が慌ただしく書類を差し出してくる。
「危篤通知書にサインをお願いします! ただ、主任クラスの医師は全員手術中で、すぐに対応できる医師がいなくて……」
「誰もいないって、どういうことですか?!」さくらの声が震える。
「重度の腎不全を併発していて、極めて難度の高い処置になります。一般の医師では手が出せません……」
その言葉が終わるか終わらないかのうちにエレベーターの扉が開き、長身の男が足早に歩み寄ってきた。
歩きながら革手袋を外すその指先は、細く、冷たいほどに白い。
背後には白衣の一団が従い、緊張した面持ちで患者の容態を報告している。
「き、木村先生?!」看護師が目を見張る。「国際便でお戻りになったばかりでは……? 三宅主任からも、まず休むようにと言われていたはずですが」
男は短く告げた。「画像を見せてくれ」
レジデントが慌てて画像データを差し出す。
呆然と顔を上げたさくらは、不意にその深い双眸と視線がぶつかった。
見覚えのある顔だった。
木村大輔――桜京市屈指の名門・木村家の若き権力者であり、天の婚約者である木村あんの叔父にあたる人物。
視線が絡み合った瞬間、胸の奥がキュッと締めつけられ、なぜか懐かしい既視感が胸を掠めた。
男の眼差しが、彼女の顔の上に数秒間留まる。
そこには射抜くような鋭い観察と、かすかな感情の揺らぎが宿っていたが、男はすぐに視線を落とした。
即座に状況を見極め、指先で画像の一点を軽く叩く。
「麻酔科に連絡。カテーテル血栓除去術を行う。五分後にオペ室へ入る」
看護師が言いにくそうに口を挟んだ。「ですが、手術の前受金がまだ……」
「緊急処置で通せ。費用は俺がサインして保証する」
さくらは全身を震わせた。「ありがとうございます……!」
病院の廊下には、鼻を突く消毒液の匂いが立ち込めていた。
さくらは頭の中で、アトリエの売掛金が最短でいつ入金されるかを弾き出していた。見ず知らずの木村医師に迷惑をかけるわけにはいかない。一刻も早く四百万円を工面して返さなければ。
奥歯を噛み締め、天の番号をダイヤルした。長い呼び出し音の末、ようやく繋がる。
だが、受話器から聞こえてきたのはあんの声だった。
『天さん、登録のない番号から電話がかかってきてるわよ……』
『ああ』天の冷たい声が響く。『放っておけ』
もはや一片の期待も抱くことなく、さくらは通話を切った。
目を閉じ、深く息を吐き出す。意を決して実父の流川潤へ電話をかけた。
「お母さんの手術代で、どうしても四百万必要なの。月曜には必ず返すから……」
『四百万だと?』潤の苛立った声が返ってくる。『酒井の坊ちゃんに何年もくっついておいて、それっぽっちの金も出せないのか?!』
『あのとき、酒井グループとの契約を取れるよう口添えしろと頼んだのに、清純ぶって突っぱねやがったくせに。金がなくなったら親父を頼るのか? 言っておくが、もう遅いわ!』
一方的に通話が切られた。
こめかみを押さえると、目頭がじんと熱くなった。
手術は二時間に及んだ。
手術室から出てきた木村大輔は、滅菌キャップを外しながら告げた。「血栓は除去しました。ひとまず命の危険は脱しましたが、早急にドナーを見つける必要があります。後でオフィスに来て登録書類にサインを」
「わかりました……ありがとうございます、木村先生」
-
集中治療室の外で、昏睡状態の母を見つめながら、さくらの脳裏に天の言葉が蘇っていた。
酒井家の力はあまりに強大だ。あの男から逃れ、母を救うためには、より揺るぎない巨木に縋るしかない。
木村大輔――木村グループの次代を担う当主であり、母の主治医。
彼に取り入ることができれば、母の命は助かる。そして天も、木村家との政略結婚を守るために迂闊には手を出せなくなるはずだ。
助けてもらったばかりの恩人を自らの泥沼に引きずり込む。卑劣で、狂気じみた危険な企みだと分かっていても、その衝動がさくらの理性をがんじがらめに縛りつけていた。
この泥沼から自分を引き揚げ、酒井家を道連れに引きずり落とせるだけの何かを、絶対に掴み取らなければならない。
化粧室へ向かったさくらは、鏡の前で涙を拭い、薄く化粧を直してから木村大輔のオフィスを訪ねた。
男はデスクに向かい、カルテに目を落としていた。
「木村先生、お忙しいところ恐れ入ります。母のドナー登録の手続きをお願いしたくて参りました」声をひそめ、柔らかな調子で切り出す。
大輔は顔を上げ、ほんのり赤みを帯びた彼女の目尻に視線を留めた。わずかな沈黙の後、「分かりました」と応じる。
「それと手術費用についてですが、連絡先を教えていただけますでしょうか。お金が用意でき次第、すぐにお支払いしますので」
「その必要はありません」 大輔は引き出しを開け、一枚のキャッシュカードを取り出すとデスクの端へと押しやった。
「金は、この口座に振り込んでください」
「暗証番号は俺の誕生日です」
すんなりと連絡先を交換できず、さくらはかすかに失望した。
カードをつまみ上げ、控えめな声で尋ねる。「あの……先生のお誕生日はいつでしょうか」
大輔は彼女をじっと見据えた。その瞳から次第に温度が引いていき、一語一語を区切るように口を開く。
「――九九年、七月二十八日」
「覚えました、木村先生」
「本当に覚えたんですか?」大輔の声が、不意に冷ややかな響きを帯びた。「どうやら流川さんは、ずいぶんと忘れっぽい方のようだ」
その声の端々には、言葉にできない怨みが滲み、どこか拗ねたような響きすら混ざっている。
意味が分からず、深く追求する勇気もなかったさくらは、付箋を一枚ちぎると素早く自分の電話番号を書き留めた。そして男の手の中へと押し込み、その温かな手のひらを指先でそっとかすめる。
大輔の指先が、思わずピクリと反応して引きつった。
「木村先生、私の番号です。いつでもご連絡くださいね」
扉が閉まり、大輔は残された付箋を拾い上げた。
そこに記された数字の並びなど、とうの昔に骨の髄まで叩き込まれている。
瞳の奥の冷たさが一段と濃さを増し、指先を緩めると、付箋はゴミ箱へと落ちていった。