八時間に及ぶ心臓手術を終えたばかりの大滝凛(おおたき りん)は、恋人が重傷を負ったという知らせを受け、水一滴すら飲む暇もなく、大雨の中を駆けつけた。
しかし重厚な個室の扉を押し開けると、凛が全身ずぶ濡れで入り口に立ち、髪から雨滴を絨毯に滴らせているというのに、今泉幸太(いまいずみ こうた)の太ももの上には見知らぬ若い女が座っていた。女の白い腕は親しげに幸太の首に絡みつき、その潤んだ瞳には、まだ乾ききっていない涙の粒がかすかに光っていた。
入り口に立つ凛を見るなり、幸太はすぐさま焦ったような大声を上げた。
「遅いぞ、凛!早くこっちに来て、奈々の右足を診てやってくれ!」
奈々と呼ばれた女は涙ぐみながら、甘ったるい声で言った。
「お姉さま、ごめんなさい……。さっきヒールで足をひねっちゃって」
「幸太くんが心配して、どうしてもお姉さまに診てもらえって……お手数をおかけしますぅ」
極度の疲労と、ずぶ濡れの服から伝わる氷のような冷たさ、そしてこの裏切りの光景に、凛の胃はぎゅっと締め付けられた。
つまり今泉幸太は、自分の新しい女の足首の捻挫を診せるためだけに、嘘をついて彼女を呼び出したというのか?
それでも医師としての本能から、彼女は滴る雨水を気に留めることもなく、無言で歩み寄って片膝をついた。
しかし、伸ばした指先がまだ女の肌に触れてもいないその時だった。
「きゃあっ!痛いっ!」
奈々は唐突に悲鳴を上げ、ひどく痛むかのように幸太の胸の中へと縮こまった。
幸太の眉間には深い皺が寄り、怒気に満ちた声が頭上から容赦なく降ってくる。
「大滝凛、お前それでも医者か?!どれだけ乱暴に触ってるんだ!」
凛は静かに顔を上げ、氷のように冷たい声で事実だけを告げた。
「私はまだ、指先すら彼女に触れていません」
「触ってもいないのに、奈々が痛がるわけないだろう!」
幸太は怒鳴りつけ、ずぶ濡れで惨めな凛の姿など全く意に介さず、腕の中の奈々の背中を優しく撫でさすってなだめた。
彼が以前から、他の女に対して自分よりもずっと優しい態度をとることは、凛も知っていた。
だが、ここまで露骨な嘘を真に受け、それゆえに自分を敵視する姿を目の当たりにするのは、これが初めてだった。
この極端な対比は、鋭い刃となって、容赦なく凛の心臓を激しく抉った。
彼女と幸太は付き合ってこそ四年だが、知り合ってからはもう丸二十年になる。
学生時代は共に登下校し、休みの日には凛が細やかに彼の身の回りの世話を焼いた。彼が高熱を出した夜は、凛が一睡もせずにずっと氷枕を替え続けたのだ。
目の前のこの女は、彼と知り合ってまだ四日にも満たない。
それなのに幸太は、知り合って四日の女の浅はかな嘘を選ぶ一方で、二十年も寄り添ってきた自分を信じようとはしなかった。
凛はゆっくりと立ち上がり、完全に未練を断ち切った冷めた瞳で彼を見た。
「申し訳ありませんが、この病気は私には診られません」
「診られないのか、それとも診たくないのか?」幸太は不快げに顔を歪めた。
「所詮は家政婦の娘だな」
「二十年前、家政婦だったお前の母親がうちの母(貴子)をかばって強盗に刺されて死に、クズみたいな父親が賠償金を持って逃げなかったら、今泉家がお前を哀れんで引き取るわけがなかっただろう!」
「うちの金で帝都医科大学の博士課程まで出してやったというのに、今じゃこんな簡単な捻挫ひとつ診ようとしない。お前は本当に恩知らずのろくでなしだ!」
心の中で、何かが音を立てて崩れ落ちた。
結局のところ、自分がどれだけ尽くそうと、彼の心の中では、自分は永遠に人からの施しで生きる「家政婦の娘」でしかなかったのだ。
凛は深く息を吸い込み、かつてないほど静かで、揺るぎない声で宣告した。
「ええ、診られません」
「それから、ここ数年、あなたの婚約者という立場を塞いでしまい、本当に申し訳ありませんでした」
「今、この場所はもう要りません」
一瞬の沈黙の後、幸太の瞳に嘲るような笑みが浮かんだ。まるで最初からこの言葉を待っていたかのようだった。
「ちょうどいい。俺も奈々にきちんとした名分を与えたかったところだ」
「どうぞご自由に」
凛はそれだけを言い残し、身を翻して出口へと向かって歩き出した。
背後からは、取り巻きの遊び仲間たちの下品な冷やかしの声が聞こえてきた。
「おいおい、どう見ても気を引くための駆け引きだろ」
「あんな家政婦の娘、今泉家の庇護なしで生きていけるわけがないさ」
「俺が電話一本かければ、あいつは尻尾を振って大人しく戻ってくるさ」幸太の自惚れた声が、濁った空気の中に響き渡っていた。
重い扉を閉め、厚い絨毯が敷かれた廊下を歩くうちに、過去の記憶が絶え間なくフラッシュバックする。
今泉グループの忘年会で、彼が全社員の面前で「俺の彼女です」と誇らしげに宣言したこと。
そして、決して完璧とは言えないダイヤモンドの指輪を差し出し、笑いながら「絶対に結婚しよう」と言ってくれたあの夜……。
嘘にまみれた甘い約束と、今日の冷酷な現実が交錯し、心臓が引き裂かれるように痛んだ。
冷たい雨水と涙が入り混じり、視界が滲む中、凛は女性用化粧室へと駆け込んだ。
一番奥の個室に逃げ込むと、彼女はついに崩れ落ちるように口元を覆い、声を殺して泣きじゃくった。
突然、扉が強い力で押し開けられ、巨大な黒い影が風を切って猛然と滑り込んできた。
圧倒的な力が彼女を壁際へと力任せに押し付け、硬いタコのある大きな手が容赦なく彼女の口を塞いだ。
耳元で、低くかすれた、有無を言わせぬ男の声が響いた。
「生きたければ、大人しく私に合わせて!」