「痛い……」
斎藤柚衣はストレッチャーに乗せられた。背中は打ち身を負い、毛先は焦げ、手の甲には目を覆いたくなるような水ぶくれが広がっていた。
10分前、柚衣は燃え盛る炎の中に飛び込み、1人の妊婦を死神の手から奪い返したばかりだった。
妊婦を消防隊員に引き渡すと、自身は出口からわずか3歩のところでへたり込んでしまった。
残された力を振り絞ってスマートフォンを取り出し、蜘蛛の巣状にひび割れた画面を、震える手で耳に当てた。
「トゥルルル……。トゥルルル……」
誰も出なかった。
柚衣は呟くように口を開いた。「痛い……。天陽……。助けて……」
ちょうどその時、1台の黒いカイエンが猛スピードで駆けつけ、火災現場の端で急ブレーキをかけた。
車のドアが開いた。
ひしめき合う群衆越しに、長身で姿勢の良い人影がこちらへ向かって歩いてくるのが見えた。
松原天陽だ!
夫だ!
黒のオートクチュールのスーツに身を包む天陽は、目鼻立ちが冷ややかで、全身から人を寄せ付けないオーラを放っていた。
普段はクールで気高い天陽だが、今は眉をひそめ、これまでに見たことがないほど切羽詰まった表情を浮かべていた。
全身の激痛で神経を張り詰めていた柚衣だったが、天陽の姿を捉えた瞬間、全身の力がすっと抜けた。
天陽が来てくれた。
きっと柚衣を心配して、会社から急いで駆けつけてくれたのだ。
その時、医師が歩み寄ってきた。「奥さん、ご家族とは連絡が取れましたか?」
「はい、夫が来ました……」
そう答えようとした瞬間、柚衣の声は喉の奥に引っ込み、音にならなかった。
なぜなら、天陽は柚衣の方へ向かってこなかったからだ。
大股で、全く別の方向へと歩いて行ってしまったのだ。
視線の先では、1人の女が慎重に支えられながら運び出されてくるところだった。
顔面蒼白で今にも倒れそうなその女は、妊娠六ヶ月の大きなお腹を抱えていた。そして天陽を見た瞬間、声もなく涙をこぼした。
「天陽……。やっと来てくれたのね、私、すごく怖かった……。赤ちゃんが……」
天陽は弾かれたように駆け寄り、女をすっぽりと腕の中に抱きしめた。
「葵桜、もう大丈夫だ。俺が来た。体の具合はどうだ?」
その低く優しい声は、これまで柚衣に対して一度も向けられたことのない口調だった。
柚衣の世界は一瞬にして静まり返った。
周囲の音が一切耳に入らなくなったかのようだった。
目の前には、ただ2人が抱き合う光景だけが広がっていた。
夫が、別の女を抱きしめていた。
優しくなだめていた。
天陽はちらりとすら、柚衣の方を見ようとはしなかった。
あの妊婦――。
それこそが、柚衣が命がけで火事場から救い出した人物だったのだ。
「天陽、あの人たちがいじめるの……」天草葵桜は甘ったるい声ですがりつき、天陽の胸の中にすっぽりと身を縮こまらせた。
天陽は自分の上着を葵桜の肩に掛け、どこか甘やかすように言った。「俺がいる。誰も君をいじめたりはしない」
柚衣はストレッチャーに横たわったまま、全身が氷のように冷え切っていくのを感じた。
背中の激痛は波のように激しさを増していく。火傷した皮膚と肉が服に張り付き、 呼吸をするたびにカミソリの刃を飲み込んでいるような痛みが走った。
看護師が額に汗をにじませながら励ました。「奥さん、もう少し頑張ってください。救急車がすぐに来ますから……」
「松原……。天陽……。どうして……」
命がけで救った女は、あろうことか夫の愛人だったのだ。
その時、救急車のサイレンの音が遠くから近づいてきた。
「早く!早く乗せて!」看護師が急かした。
柚衣が救急車に運び込まれた瞬間、視界が最後に捉えた光景は、天陽が葵桜を抱き抱えて立ち去る後ろ姿だった。
柚衣の呼ぶ声は、彼の耳には届いていなかったのだ。
あるいは聞こえていても、あえて無視したのだろう。
車のドアが閉まった。
救急車の中で、看護師が柚衣の冷たい手をそっと握った。「奥さん、しっかりしてください!もうすぐ病院に着きますから!」
柚衣の目は乾いて痛むのに、涙は一滴も流れなかった。
病院に運ばれた直後、柚衣は突然呼吸困難に陥った。
医師は顔色を変え、すぐに叫んだ。「早く!すぐに手術の手配を、もう待てない!」
柚衣は手術室へと運び込まれた。
麻酔が徐々に効き始め、意識がぼんやりとし始めた。
無影灯が眩しく顔を照らしてきた。
目を閉じ、完全に意識を失うその瞬間、柚衣の脳裏にふとある思いがよぎった。
(松原天陽!)
(もしある日、あなたの子を身ごもっているあの女が、たった今私が命がけで火の中から救い出した女なのだと知ったら、あなたは何て言うの?)
(ありがとうって言うの?)
(それとも、もう私をちらりと見ることすらしないの?)
背中の火傷など、胸にぽっかり空いた穴の痛みに比べれば大したことはない――。