「離婚しよう」
そのたった一言で、織田七海は名家から見捨てられた妻となってしまった。
三年間、西永良陽に尽くしてきた結果が、この胸を抉るような痛みだった。
今日は二人の三回目の結婚記念日だった。七海は良陽をデートに誘おうと、弾む心で彼のオフィスを訪れた。しかし、目に飛び込んできたのは、デスクの上に置かれた高価な宝石のネックレスだった。
てっきり自分への贈り物だと思ったのだが。
デスク上のネックレスに注がれる彼女の視線に気づいた良陽は、さっとその美しいケースの蓋を閉じた。
「深悠が戻ってきたんだ。これは彼女への贈り物だ」 その言葉は、余計な期待はするなという、冷たい警告のようだった。
そういうことだったのか。
七海はうつむいた。厚い黒縁メガネが、その表情に浮かんだ苦渋と寂寥感を覆い隠す。
彼が天にも昇るほど寵愛した、忘れがたい女性が帰ってきたのだ。
一方、自分はと言えば、三年経っても彼の心に入ることも、その体に触れることさえ許されなかった、ただの「置物」だ。そして今、その置物は用済みとばかりに、ゴミ箱に捨てられようとしている。
うつむいて黙り込む七海の姿に、良陽は少し苛立った。
「慰謝料は払う。だから、さっさと離婚に応じろ。いつまでも君のいるべきではない場所に居座ろうなんて思うな」 良陽の声には、警告の色が滲んでいた。
正直なところ、織田七海という女性は、容姿もスタイルも、家事の能力も申し分なかった。ただ、あまりにも地味で面白みに欠ける。
言うなれば鶏肋のようなもの。食べるほどの味はないが、捨てるには惜しい。
彼女は完璧な主婦ではあったが、彼の妻にはふさわしくなかった。
それでもなお黙り込んでいる彼女に、良陽は眉をひそめて冷たく言い放つ。「考える時間を三日やる。だが俺の忍耐にも限界がある。あまり待たせるな……」
「必要ないわ。サインする」 七海はペンを取ると、一切の躊躇なく離婚協議書にその名を記した。
二人は市役所へ向かい、ほどなくして離婚届は受理された。
離婚という文字がやけに目に刺さる。胸は痛んだが、同時に安堵も感じていた。
いつか西永良陽の心を溶かせるかもしれない――そんな淡い期待を抱きながら、結婚生活を送る必要はもうないのだ。
希望と絶望の間を繰り返し、自分を追い詰める日々は終わった。
じわじわと痛めつけられるより、一度で終わらせる方がいい。これで、すべてが終わったのだ。
その時、良陽の携帯が鳴り、七海の思索は中断された。
彼は焦った様子で電話に出る。「何だって?深悠が病院に? すぐ行く!」
電話を切るやいなや、西永良陽は車に乗り込み、走り去って行った。こちらを一瞥することもなく、ましてや家まで送る気など毛頭ないようだった。
北村深悠のこととなると、彼はいつもそうだ。あの女性のことしか目に入らなくなる。
良陽が去った後、一台の黒と赤のブガッティが七海の前に滑るように停車した。
運転席から現れたのは、親友の古市愛理だった。クールな黒のセットアップに身を包み、彼女は笑みを浮かべて七海を出迎えた。「女王、地獄からの脱出おめでとう」
愛理は七海に車のキーを投げ渡すと、挑発的に眉を上げる。「景気づけに、ひとっ走りどう?」
「乗って」 七海は迷わずアクセルを踏み込み、市役所を後にした。
ブガッティ・ヴェイロンは浜松道を、速く、そして安定した走りで駆け抜けていく。
「これはバーでお祝いしなきゃでしょ? あんたが止めなきゃ、さっきあのクズ男の前でシャンパン開けてやったのに!」と愛理が不満げに言う。
「任せるわ。 でもその前に、美容院に寄りたい」 七海に異論はなかった。確かに、少しアルコールが必要な気分だった。
愛理はさらに尋ねる。「あんたが表舞台から消えて三年。多くの人が血眼になって探してる。いつ復帰して、医学界を震撼させるつもり?」
「今のところ、その気はないわ」 七海は淡々と答えた。
「ふん」と愛理は鼻を鳴らす。「あんたの元夫も、愛する女を治すために必死で探してるって聞いたわ。笑える! まさか自分が捨てた妻こそが、あの神医『キン』だなんて、死んでも気づかないでしょうね」
七海は何も答えなかった。
……
その頃。
病院へ急ぐ車内で、良陽は秘書に苛立ちをぶつけていた。「まだ『キン』の情報はないのか!」
『キン』は世界的に有名な神医だが、この三年間、忽然と姿を消し、誰もその行方を掴めていなかった。
これまで、神医『キン』の素顔を見た者は一人もいない。 男か女かさえも分かっていない、謎に包まれた人物だ。
「松井会長、あらゆる手を尽くしましたが、依然として『キン』の消息は……」
「続けろ!地球の裏側まで探してでも見つけ出せ!」
「はっ!」
良陽は焦燥に駆られながら病院の駐車場に車を滑り込ませ、ドアを開けるのももどかしく病棟へ駆け出した。
どんな代償を払ってでも、神医『キン』を見つけなければならない。北村深悠の体は、もう限界に近づいていた。