私が二十二歳の誕生日に、そして私たちの人生が始まる証として贈った、黒澤組の新会社のためにデザインしたロゴ。 それが私の指から滑り落ちたのは、彼が私を追い払うために婚約の芝居を打つと、若頭に話しているのを聞いてしまった瞬間だった。 それは高級クラブの個室の外、ふかふかの絨毯の上に、ことり、と軽い音を立てて落ちた。 店内に低く響く音楽が、その小さな音をいとも簡単に飲み込んでいく。 私の世界から、すべての音が消えた。
私が二十二歳の誕生日に、そして私たちの人生が始まる証として贈った、黒澤組の新会社のためにデザインしたロゴ。 それが私の指から滑り落ちたのは、彼が私を追い払うために婚約の芝居を打つと、若頭に話しているのを聞いてしまった瞬間だった。 それは高級クラブの個室の外、ふかふかの絨毯の上に、ことり、と軽い音を立てて落ちた。 店内に低く響く音楽が、その小さな音をいとも簡単に飲み込んでいく。 私の世界から、すべての音が消えた。
私が二十二歳の誕生日に、そして私たちの人生が始まる証として贈った、黒澤組の新会社のためにデザインしたロゴ。
それが私の指から滑り落ちたのは、彼が私を追い払うために婚約の芝居を打つと、若頭に話しているのを聞いてしまった瞬間だった。
それは高級クラブの個室の外、ふかふかの絨毯の上に、ことり、と軽い音を立てて落ちた。
店内に低く響く音楽が、その小さな音をいとも簡単に飲み込んでいく。
私の世界から、すべての音が消えた。
第1章
水咲 熾苑 POV:
私が黒澤組の跡取りである「影」こと黒澤弾に恋をしたのは、十五歳の時だった。
私は、彼の父親が最も信頼する幹部、水咲正臣の娘。
この世界では、彼は私の「若」であり、私の運命そのものだった。
十六歳の時、黒澤組が主催するチャリティーパーティーで、私はその運命を確信した。
頭上で、重く巨大な照明機材が、軋む音を立てて外れたのだ。
弾は稲妻のように動いた。
高級なスーツに身を包んだ、圧倒的な力の塊。
彼は私の腕を鉄のような力で掴んで引き寄せた。
その直後、私が立っていた場所に、金属の塊が叩きつけられた。
彼は何も言わなかった。
ただ、その黒い瞳で私を見下ろし、品定めするように一瞥すると、震える私の手に銀色のジッポを押し付けた。
そこには黒澤組の代紋が刻まれていた。
声なき、所有の証。
私の守護者。
私はそのジッポを、私たちの未来を繋ぐ神聖な絆として、肌身離さず持ち歩いた。
シャンパンと愚かな勇気に満たされた十八歳の誕生日。
私はすべてを告白した。
彼にキスをした。
彼は退屈そうに、唇の端に微かな笑みを浮かべただけだった。
「二十二になって大学を卒業したらな」
彼の低い声が、私の中で響いた。
「まだお前が、その…忠誠心とやらを持ち続けているなら、俺たちの運命を結びつけることを考えてやってもいい」
それは、若からの命令だった。
私は彼の気まぐれな言葉を、神聖な誓いとして、私たちの家族を結びつけるための婚約の約束として受け取った。
私の人生のすべてを、その約束を中心に築き上げた。
彼が支配する帝国の中心に近い、東京の多摩美術大学に通った。
四年間、私は自分の技術を磨きながら、ただひたすら待ち続けた。
今夜は、私の二十二歳の誕生日。
すべての集大成。
私は彼の新しい表の会社のために、完璧なロゴをデザインした。
美しく、同時に威圧的な、洗練されたモダンなエンブレム。
それは紙の上に描かれた私の魂であり、私の献身の証。
私たちの家族の絆を固めるための贈り物だった。
今、彼の個室の外に立ち、私は真実を聞いてしまった。
「あいつは邪魔なんだよ、坂東」
弾の声には、隠しきれない苛立ちが滲んでいた。
「あの執拗な忠誠心は、今や足枷でしかない」
「では、若。どうなさいますか?」
若頭である坂東の声が尋ねる。
「一条麗奈は野心家だ。自分の役をきっちり演じるだろう。婚約を発表する。子供もだ。それで水咲のあの小娘も、諦めて永久に消えてくれるはずだ。あいつはこの世界には純粋すぎる。あいつのためでもあるんだ」
女の笑い声がした。
喉の奥で響く、自信に満ちた声。
一条麗奈。
外部の人間で、野心家の成り上がり。
「ご心配なく、弾さん。私が、真実味たっぷりに演じてさしあげますわ」
息が喉に詰まり、鋭い痛みが走った。
私の捧げものだったロゴは、足元で忘れ去られている。
ポケットの中の銀のジッポが、氷のように冷たく感じられた。
私は踵を返し、歩き出した。
走らなかった。
まるで他人事のように、自分の動きが現実感を失っている。
クラブの重い扉を押し開け、東京の冷たい雨の中に足を踏み出した。
雨はすぐにドレスを濡らしたが、寒さは感じなかった。
ハンドバッグの中で携帯が震えた。
弾から。
そして兄の玲央から。
私はそれを無視し、バッグの奥深くに押し込んだ。
彼は私の忠誠心を望んでいなかった。
私を切り捨てたがっていた。
ならば、そうしよう。
この絆は、私自身の手で断ち切ってやる。
私の夫、神宮寺玲は、東京で最も悪名高いプレイボーイだった。十九歳の女の子を、季節ごとに着せ替えるようにとっかえひっかえすることで有名だった。 この五年間、私は自分が彼をようやく手懐けた、特別な存在なのだと信じ込んでいた。 その幻想が粉々に砕け散ったのは、父が骨髄移植を必要とした時だった。完璧なドナーは、アイリスと名乗る十九歳の少女。 手術当日、玲は彼女を病院に連れて行くことより、ベッドで彼女と過ごすことを選んだ。そのせいで、父は死んだ。 彼の裏切りは、それだけでは終わらなかった。 エレベーターが落下した時、彼は真っ先に彼女を助け出し、私を見捨てた。 シャンデリアが墜落した時、彼は自分の体で彼女を庇い、血を流して倒れる私を跨いでいった。 あげくの果てに、死んだ父が遺してくれたたった一つの形見を盗んで、彼女に渡した。 その全ての仕打ちの間、彼は私を「わがままで恩知らずだ」と罵った。私の父が、もうこの世にいないという事実には、全く気づかないまま。 だから私は、静かに離婚届にサインし、姿を消した。 私が発った日、彼からメッセージが届いた。 「朗報だ、親父さんの新しいドナーが見つかった。手術の日程を決めに行こう」
私は、IT業界の若きカリスマ、神崎キリアンの錨だった。彼の混沌とした魂を繋ぎ止められる、唯一の存在。 でも、私の弟が死にかけている時、キリアンは命を救うためのお金を、愛人に渡した。数億円もする猫の保護施設を建てるために。 弟が死んだ後、彼は事故で血を流す私を置き去りにして、その女を助けに行った。 そして最後の裏切り。離婚を申請しようとした時、私たちの結婚そのものが、巧妙に偽造された嘘だったと知った。 彼は、私が決して離れられないように、自分自身のものを何も持てないように、偽りの世界を築き上げていた。 だから私は、何年も前に一度だけ断った男に電話をかけ、彼の帝国を焼き尽くす計画を始めた。
五年前、私は軽井沢の雪山で、婚約者の命を救った。その時の滑落事故で、私の視界には一生消えない障害が残った。視界の端が揺らめき、霞んで見えるこの症状は、自分の完璧な視力と引き換えに彼を選んだあの日のことを、絶えず私に思い出させる。 彼がその代償に払ってくれたのは、私への裏切りだった。親友の愛理が「寒いのは嫌」と文句を言ったからという、ただそれだけの理由で、私たちの思い出の場所である軽井沢での結婚式を、独断で沖縄に変更したのだ。私の犠牲を「お涙頂戴の安っぽい感傷」と切り捨てる彼の声を、私は聞いてしまった。そして彼が、私のウェディングドレスの値段にケチをつけた一方で、愛理には五百万円もするドレスを買い与える瞬間も。 結婚式当日、彼は祭壇の前で待つ私を置き去りにした。タイミングよく「パニック発作」を起こした愛理のもとへ駆けつけるために。彼は私が許すと信じきっていた。いつだって、そうだったから。 私の犠牲は、彼にとって愛の贈り物なんかじゃなかった。私を永遠に服従させるための、絶対的な契約書だったのだ。 だから、誰もいない沖縄の式場からようやく彼が電話をかけてきた時、私は彼に教会の鐘の音と、雪山を吹き抜ける風の音をたっぷりと聞かせてから、こう言った。 「これから、私の結婚式が始まるの」 「でも、相手はあなたじゃない」
私が死ぬ最初の兆候は、猛吹雪ではなかった。 骨の髄まで凍てつくような寒さでもない。 それは、婚約者の目に浮かんだ、あの色だった。 彼が、私の人生そのものである研究成果を――私たちが生き残るための唯一の保証を――こともなげに他の女に渡したと告げた、その時の目に。 「ユイナが凍えていたんだ」 彼は、まるで私が理不尽なことを言っているかのようにそう言った。 「君は専門家だろ。なんとかできるはずだ」 そう言うと、彼は私の衛星電話を奪い取り、急ごしらえの雪穴に私を突き落とし、死ぬがままに放置した。 彼の新しい恋人、ユイナが現れる。私の開発した、きらめくスマートブランケットにぬくぬくとくるまって。 彼女は微笑みながら、私のピッケルで私のスーツを切り裂いた。嵐から身を守る、最後の保護層を。 「大げさなんだよ」 凍死しかけている私に、彼は軽蔑に満ちた声で言い放った。 彼らはすべてを奪ったと思った。自分たちが勝ったと信じていた。 でも、彼らは知らなかった。私が袖口に縫い込んだ、秘密の緊急ビーコンの存在を。 私は最後の力を振り絞り、それを起動させた。
5年間、私は神宮寺 司の婚約者だった。 5年間、兄たちはようやく私を愛すべき妹として扱ってくれた。 けれど、祭壇の前で彼を捨てた双子の姉、詩織が、偽のがん宣告を盾に帰ってきた。 そして彼は、たった5分で彼女と結婚した。 誰もが姉の嘘を信じ込んだ。 姉が毒蜘蛛で私を殺そうとした時も、彼らは私を大げさだと罵った。 姉のパーティーを台無しにしたと濡れ衣を着せられた時は、兄たちに血が滲むまで鞭で打たれた。 彼らは私を「価値のない代用品」「姉の顔をしただけの仮の存在」と呼んだ。 そしてついに、彼らは私をロープで縛り、崖から吊るして見殺しにした。 でも、私は死ななかった。 崖を這い上がり、自分の死を偽装して、姿を消した。 彼らが亡霊を望むなら、本物の亡霊になってやろうと決めた。
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