黒澤蓮司と結婚するはずだった日、彼は公衆の面前で、私が彼の兄の女だと宣言した。
彼は土壇場で私たちの結婚式を中止した。
元カノの詩織が交通事故で記憶喪失になり、記憶が二人がまだ深く愛し合っていた頃に戻ってしまったからだ。
だから彼は、ウエディングドレス姿の私を捨て置き、彼女の献身的な恋人を演じることを選んだ。
一ヶ月間、私は黒澤本邸に「お客様」として滞在することを強いられた。
彼が彼女を溺愛し、過去を再構築していく様をただ見つめながら。
その間も彼は、彼女が回復したらすぐに結婚すると私に約束し続けた。
そして、私は真実を盗み聞きしてしまった。
蓮司は彼女の記憶を取り戻す薬を、金庫に隠し持っていたのだ。
彼は追い詰められていたわけではなかった。
ただ、人生最愛の人との二度目のチャンスを、心ゆくまで味わっていただけ。
私が彼の所有物であり、彼が終わるまでただ待っているだけだと確信していた。
部下には、二人とも手に入れられると豪語していた。
彼は兄の名を使って私を辱めた。
いいだろう。
ならば私は、彼の兄の名を使って彼を破滅させる。
私は一族の真の権力者、組長である黒澤龍征の執務室に足を踏み入れた。
「弟の蓮司さんは、私をあなたの付き人だと言いました」
私は彼に告げた。
「それを、現実にしましょう。私と、結婚してください」
第1章
泉 POV:
黒澤蓮司と結婚するはずだった日、彼は公衆の面前で、私が彼の兄の女だと宣言した。
それは、彼の真実の愛する人が病院のベッドで壊れ、彼だけを記憶している間に、一族全員に聞こえるように囁かれた、都合のいい嘘だった。
チャペルの重厚な樫の扉は閉ざされていた。
向こう側では招待客がざわめき、その囁きは木を通して鈍い唸りのように聞こえる。
ウエディングドレスが、レースとシルクの檻のように感じられた。
一時間前まで、私は天にも昇る気持ちだった。
今では、骨の髄まで凍りつくような絶望が忍び寄っていた。
その知らせは、弾丸のように届いた。
交通事故。
蓮司の元カノで、彼が本当に忘れられなかった女、藤崎詩織が危篤状態だという。
さらに悪いことに、彼女は記憶喪失だった。
記憶は五年前、彼女と蓮司が深く愛し合っていた頃にリセットされていた。
彼は花嫁である私のことなど二の次で、彼女の元へ駆けつけた。
ようやく彼が戻ってきたとき、その顔は張り詰めた平静を装っていた。
彼は私の前に立ったが、私の目ではなく、肩越しの壁を見つめていた。
「結婚は、中止だ」
彼の声は平坦だった。
彼の兄であり、黒澤組のトップである黒澤龍征が隣に立っていた。
龍征さんの目は、冬の夜のように冷たく暗く、私に注がれていた。
彼こそがこの場の真の権力者であり、その存在は部屋に重くのしかかっていた。
蓮司はただの若頭に過ぎないが、龍征さんは組長。
彼の言葉は、絶対だった。
「中止って、どういうこと?」
私の声は震えていた。
「詩織が…あいつ、俺のことしか覚えてないんだ。医者は、どんなショックも命取りになりかねないって」
蓮司はそう説明したが、視線はまだ私を避けていた。
「あいつは、俺たちがまだ付き合ってると思ってる」
彼は彼女のために、フリをするつもりなのだ。
私が捨てられる一方で、彼は彼女と五年前の幻想の中で生きるつもりなのだ。
「私は?」
私の声はかろうじて囁きになった。
「私はどうなるの、蓮司?」
彼はようやく私を見たが、その目に謝罪の色はなかった。
ただ、苛立ちがあるだけだった。
「泉、これはうちの問題だ。複雑なんだよ」
「私たちは、家族になるところだった」
ショックを突き破るように怒りの火花が散り、私は言い返した。
その時、彼はやってのけた。
彼は外で待つ招待客に目をやり、それから兄に目をやった。
残酷で、計算された考えが彼の目に閃いた。
「当分の間」
彼は、ドアの近くにいる誰にでも聞こえるくらい大きな声で言った。
「泉は、龍征さんの今夜の付き人だ。お客様としてな」
その言葉は、物理的な打撃のように私を襲った。
婚約者ではない。
結婚するはずだった女でもない。
お客様。
兄の付き人。
彼は、いくつかの無頓着な言葉で、私の称号も、尊厳も、すべてを剥ぎ取った。
彼が別の女の愛情深い恋人を演じるために去っていく間、私は屈辱にまみれてそこに立ち尽くした。
ウエディングドレスのまま一人取り残され、起こらなかった結婚式の幽霊となった。
あれから一ヶ月が経った。
黒澤本邸で「お客様」として暮らした一ヶ月。
蓮司が詩織を溺愛し、私たちの思い出の場所に彼女を連れて行き、私の存在を消し去りながら彼らの共有された過去を再構築していくのを見続けた一ヶ月。
毎晩、彼は私の部屋に来て、これは一時的なものだと言った。
「あいつが良くなるまでだ、泉。そしたら結婚しよう。約束する」
嘘。
すべてが。
希望を見出したのは、最も予期せぬ場所だった。
夕方のニュースで、古くからの漢方薬で有名な京都の旧家についての特集が組まれていた。
その中の一つが、失われた記憶を取り戻すと言われていた。
心臓が肋骨を激しく打った。
解決策だ。
この悪夢から抜け出す方法。
必死で書き留めた情報を持って、私は蓮司を探しに走った。
彼の書斎のドアが少し開いていた。
ノックしようとした時、中から声が聞こえた。
「いつまでもこんなこと続けられませんよ、蓮司さん」
そう言ったのは、彼の最も信頼する部下、マコトだった。
「組長も我慢の限界です。薬があることはご存知でしょう」
息が止まった。
彼は知っていた?
「藤崎家から連絡がありました。京都の旧家が薬を持っていると。一日で彼女の記憶を治せるかもしれません」
マコトは続けた。
重い沈黙が続いた。
そして、蓮司の声が聞こえた。
低く、骨の髄まで凍るような自己中心的な響きを帯びていた。
「知ってる」
彼は言った。
「持ってるよ。俺の金庫にしまってある」
「何ですって?」
マコトは愕然としているようだった。
「なら、どうして使わないんですか?」
「だって、五年ぶりに、あいつが昔みたいに俺を見てくれるんだ」
蓮司は、歪んだ喜びに満ちた声で告白した。
「これは俺にとって二度目のチャンスなんだ、マコト。これを手放すつもりはない。まだだ」
「正気じゃない」
マコトは反論した。
「泉さんはどうするんです?永遠に待ってくれるとでも?彼女はあなたの婚約者ですよ」
蓮司は笑った。
冷たく、傲慢な笑い声だった。
「泉?あいつは俺を愛してる。俺から離れるわけがない。他に行くところもないんだ。詩織にはいずれ薬をやるさ。少し時間を過ごしてからな。泉と結婚して、俺の地位も守る。俺は、二人とも手に入れられるんだ」
彼の言葉は、私の魂に氷水を浴びせかけた。
彼は追い詰められていたわけではなかった。
ただ、耽溺していたのだ。
私の現実を犠牲にして、夢を味わっていた。
私が彼の所有物であり、ただ待つだけの存在だと確信して。
顔から血の気が引くのを感じた。
体は麻痺し、深く、すべてを飲み込むような冷たさが血管を駆け巡った。
倒れ込まないように壁に手をつき、指が石膏に食い込んだ。
涙が目に滲んだが、流すものか。
彼のために。
共有された視線、私が目撃することを強いられた優しい触れ合い、そのすべてが心の中で再生された。
それは必要に迫られた演技ではなかった。
彼にとっては本物だったのだ。
私たちの関係、私たちの婚約は、一体何だったのだろう?
もっといいものが現れるまでの、ただの代用品だったのか?
手のひらが痛んだ。
見下ろすと、爪が皮膚を破り、小さな血の玉が滲み出ていた。
痛みさえ感じなかった。
ポケットの中でスマホが震えた。
蓮司からのメッセージだった。
`今夜は部屋にいてくれ。詩織の気分が優れないんだ。俺がそばにいる。忘れるな、お前は龍征さんの『お客様』だ。その役を、ちゃんと演じろ`
その役を、演じろ。
その言葉は、凍てついた心の洞窟に響き渡った。
冷たさは私を麻痺させるだけではなかった。
私を硬化させた。
悲しみは凝固し始め、鋭く、明確な決意へと変わっていった。
いいだろう。
その役を、演じてやろう。
彼は私に龍征さんの付き人になってほしいのか?
彼の欺瞞の盾として、兄の名前を使いたいのか?
ならば私は、彼の嘘を私の武器に変えてやる。
震える指で連絡先を開いた。
蓮司の名前を通り過ぎ、「組長」とだけ登録された番号までスクロールした。
親指が通話ボタンの上で震えた。
深く、震える息を吸い込み、それを押した。
彼はワンコールで出た。
その声は低く、危険な響きを帯びていた。
「泉」
「お会いしたいんです」
私の声は、驚くほど落ち着いていた。
「俺のオフィスに。今すぐだ」
私は獅子の巣窟へと足を踏み入れた。
黒澤龍征は巨大なマホガニーのデスクの後ろに座り、街の灯りが彼の背後で堕ちた星の海のようにきらめいていた。
彼は弟とはすべてが違った。
忍耐強く、沈黙し、そして致命的。
彼の力は騒々しいものではなく、空気中の息苦しい圧力だった。
彼は私を見ていた。
その暗い目は読み取れない。
私は時間を無駄にしなかった。
「ご提案があります」
彼は背もたれに寄りかかり、続けるようにと身振りで示した。
「蓮司さんは公の場で、私をあなたの付き人だと指名しました」
私は始めた。
その言葉は灰のような味がした。
「それを、現実にしましょう。私と、結婚してください、龍征さん」
驚きか、満足か、何かが彼の顔をよぎったが、すぐに消えた。
彼は指を組み、その視線は鋭かった。
「弟に当てつけるために、俺と結婚したいと」
それは質問ではなかった。
「私は自分の立場を確保したいのです」
私は硬い声で反論した。
「そして、あなたの一族の同盟を固めるためです。私たちとの結婚は、単なる若頭との結婚よりもはるかに効果的にそれを実現します」
彼は長い間沈黙していた。
部屋の唯一の音は、グランドファーザー・クロックの時を刻む音だけだった。
彼の目は私から離れず、探り、評価していた。
「それで」
彼はついに、絹のような脅威を帯びた声で尋ねた。
「なぜ俺がそれに同意すると思う?」
これが私の賭けだった。
私の唯一の切り札。
「なぜなら、あなたは過去二年間、あなたのデスクの一番下の引き出しに、私の写真を保管しているからです」
空気が張り詰めた。
沈黙が、濃く、重く伸びた。
一度、ペンを探しているときに偶然見つけてしまったのだ。
庭で笑っている私の不意打ちの写真。
蓮司でさえ見たことのない写真だった。
その時は、奇妙だと片付けていた。
今、私は理解した。
彼は動かなかったが、ゆっくりと、捕食者のような笑みが彼の唇に浮かんだ。
それは彼の目には届いていなかった。
「いいだろう」
彼は言った。
その言葉は死刑宣告の最終決定のように響いた。
「結婚しよう。だが、これを理解しろ、泉。後戻りはできない。一度俺のものになったら、永遠に俺のものだ」
震えが背筋を駆け下りた。
私は一つの檻を別の檻と交換した。
おそらく、より金箔で飾られ、より危険な檻と。
だが、これは私自身が選んだものだ。
「理解しています」
私は言った。
「よろしい」
彼は立ち上がった。
その巨大な体が私に影を落とした。
「そして、もう一つある」
「何でしょう?」
「結婚式では」
彼は言った。
その声は低く、所有欲に満ちた唸り声に変わった。
「蓮司にお前を車まで運ばせよう。お前を引き渡させる。あいつの手で、お前の手を俺の手に渡させるんだ」