「……私、結婚してるんです」
闇の中で、唐澤晚香は壁際に押しつけられていた。鋼のような腕が逃げ道を塞ぎ、首筋を熱い息がなぞる。身体が、びくりと震える。
男は彼女の腰を掴み、鼻で笑った。「結婚してるくせに、まだこんな『仕事』続けてんのか?……旦那、知ってんの?」
その一言が、胸を鋭く刺した。
一時間前、彼女のスマホに一本の動画が届いた。
――夫・岩田皓輝と、異母妹の依奈。互いに裸同然の姿で、ベッドの上で絡み合っている。
晚香は裏切りの証拠を押さえるため、指定されたホテルへと向かった。
だが、部屋番号を確認する間もなく、背後から現れた男に、力ずくで部屋に引きずり込まれた。
「今さら清純ぶるな」 男は彼女を抱き上げ、ベッドに叩きつけた。ネクタイを裂き、手首を縛り、唇を奪う。呼吸ができない。
「既婚者なら、慣れてるんだろ?」嘲り混じりの声とともに、布地が次々と破かれていく。
「私、まだ……っ!」言いかけた声が喉で詰まる。
結婚して三年。彼女は、まだ誰のものにもなっていなかった。
けれど、それを口にしたところで、誰が信じる?
怒りが、腹の底からこみ上げた。もう、どうでもよかった。
痛みも、屈辱も。全部、燃やしてやる。
唇を噛みしめると、尖った犬歯が皮膚を裂く。血の味が、口いっぱいに広がった。
三年間、守ってきた夜を。夫のために、大切にしてきたものを。こんな形で、知らない男に奪われるなんて。
顔すら知らない、名前も知らない相手に。
……
翌朝。スマホの振動で、晚香は目を覚ました。病院からの着信だった。
『唐澤さん!すぐ帝都病院へ!お母様が――!』
背後から、低い声が落ちた。「……旦那からの『お目覚めコール』か?」昨夜の男、まだベッドにいた。
その嘲りを無視して、晚香は散らばった服を掻き集める。「昨夜のことは、忘れてください」小さくそう言い残し、俯いたまま身を翻した。
昨夜の過ちは、報復。そう言い聞かせるしかなかった。
男は半裸のまま、薄く笑った。
「思ったより奔放だな。旦那がいても外で遊んで、終われば知らん顔か」
何も言い返さず、晚香はドアを叩き開けた。母の元へ、一刻も早く行かなくては。あの男と関わる気など、もう一切なかった。
――そして、ドアが閉まる。静寂の中、秘書の佐々木直樹がノックとともに入ってきた。「加賀社長……その、昨夜の件ですが……」
加賀律真はこめかみを押さえ、深いため息を吐いた。「俺のベッドに女を放り込んだのは……婆さんか?」
佐々木は肩をすくめ、こくりと頷く。
(やっぱりな。大奥様の差し金か。)律真は舌打ちした。
帝都第一財閥の総帥にして、A国最大企業のトップ――その俺が、よりによって既婚女に『初夜』をくれてやるとはな。
昨夜、あれほど激しく抱いたのに、あの女は一度も声を上げなかった。泣きも、喘ぎもせず。……まるで、何も感じていないみたいに。「冷たい女だ」だが、不思議と記憶に残る。
朝の、あの虚ろな目。俺を見もしないで去っていった姿。
婆さんも、どこからあんな女を見つけてきたのか。
昨夜、酒にさえ酔っていなければ……
ふと、視線がシーツに落ちた。
白い布に、赤い点が散っていた。律真の眉が、僅かに動く。
(……既婚、じゃなかったのか?)
出て行く時、彼女の唇が切れて血が滲んでいた。
だが、もしも、あれが、そういう意味だったとしたら、昨夜の俺の行為は……
タクシーの車窓から、灰色の空が流れていく。
病院のロビー。そこに立つ二人の姿が、晚香の足を止めた。――皓輝と、異母妹の依奈。依奈が夫の腕に絡みつき、勝ち誇ったように笑う。
晚香の目が、充血する。「……あなたたち、いつから?」
依奈は甘えるように皓輝の肩に顔を寄せた。「あんたが結婚した、その日よ。義兄様は、私のベッドに来たの」
「三年経っても『処女』なんて、 笑えるわよね?」
依奈の甲高い笑い声が、病院の白い空間に響き渡った。
頭の中で、何かが壊れた音がした。冷水のような静けさが、晚香の心を満たしていく。
この三年間、晚香は、良妻賢母を絵に描いたように生きてきた。朝に弁当を作り、夜は夫の帰りを信じて待つ。その繰り返しの中で、彼だけを愛してきた。なのに、彼は。あの新婚の夜から、ずっと依奈と……。
結婚してから、一度も皓輝は晚香に触れなかった。「仕事が忙しいから」そう信じて疑わなかった。けれど、本当は、最初から別の女を抱いていたのだ。それも、自分の妹を。
目尻がじわりと赤く染まる。
どうして、気づかなかったんだろう。
子どもの頃から、依奈は何でも欲しがった。玩具も、服も、友達も。そして今度は――男まで奪った。
「晚香、離婚だ」皓輝の声は氷のように冷たかった。 「何も持たずに、この家から出ていけ」
心臓を、鋭い刃で抉られたようだった。
三年間、尽くしてきた結果が、これだ。
「皓輝。……私が、お金目当てだったとでも?」
彼女は金のために結婚したわけじゃない。母は名家の出で、家の資産も十分にある。少なくとも、金に困ったことなんて一度もなかった。
「まだお嬢様気取りか?」皓輝は鼻で笑った。 「お前の母親が死ねば、お前なんて乞食同然だ」
その言葉に、晚香の体がびくりと震えた。「……どういうこと?」
「病室、行ってきたら?」依奈が唇を歪める。「今なら、お母様の『最期』に間に合うかもね?」 紅く艶めいたその唇が、血のように見えた。
悪い予感が背中を突き動かす。晚香は無我夢中で病室へ駆け込んだ。
「死者、唐澤清子。手首の自傷による自殺。享年四十八歳」
医師の冷たい声が、鈍器のように頭を打った。
「……嘘、です。母はずっと意識が……混濁していたのに……自殺なんて、するはず……!」 涙が頬を伝う。
だが、医師は淡々と答えた。 「搬送されたとき、お母様は意識がはっきりしていました」
理解が、追いつかない。
十年以上も意識が混濁していた母が、なぜ、今になって?
その時、病室の入口に二つの影。皓輝と依奈が並んで立っていた。
依奈は笑いながら、一枚の紙を彼女の顔に叩きつけた。「ほら、見なさいよ。お母さんの遺書。自殺だったことも、あんたが相続を放棄するって書いてあるわ」 乾いた紙の音が、静寂を裂く。「さっきお父様から連絡があったの。――あんたは、唐澤家から追放。今日からあんたは、一文無しの乞食よ」