私は、IT業界の若きカリスマ、神崎キリアンの錨だった。彼の混沌とした魂を繋ぎ止められる、唯一の存在。
でも、私の弟が死にかけている時、キリアンは命を救うためのお金を、愛人に渡した。数億円もする猫の保護施設を建てるために。
弟が死んだ後、彼は事故で血を流す私を置き去りにして、その女を助けに行った。
そして最後の裏切り。離婚を申請しようとした時、私たちの結婚そのものが、巧妙に偽造された嘘だったと知った。
彼は、私が決して離れられないように、自分自身のものを何も持てないように、偽りの世界を築き上げていた。
だから私は、何年も前に一度だけ断った男に電話をかけ、彼の帝国を焼き尽くす計画を始めた。
第1章
美咲 POV:
どんな怪物にも弱点はあるという。IT業界で最も聡明で、最も気性の激しい怪物、神崎キリアン。その弱点は、私のはずだった。私は彼の錨。その混沌とした魂を、地に繋ぎ止める唯一の存在。私たちはそう信じていた。彼の帝国と私の全世界は、その神話の上に成り立っていた。
それが、もはや私の世界ではなくなるまでは。
噂は何ヶ月も前から渦巻いていた。煌びやかな社交界という名の金色の鳥かごの中での囁き。私が一度も読んだことのないゴシップサイトの見出しは、「心配している」友人たちから次々と送りつけられてきた。私が「砂の色が好き」と呟いただけで島を丸ごと買ったキリアンが、今ではどこへ行くにも綾小路ダリアと一緒だった。
ダリア。その名前を口にするだけで、舌が焼け爛れるようだ。彼女はSNSで有名なインフルエンサーで、有名であること自体がステータス。そして、私の高校時代の悪夢そのもの。私の手首にある、銀色に光る微かな傷跡は、彼女がつけたもの。とっくに葬り去ったはずの痛みを、絶えず思い出させる。
そしてキリアン、私のキリアンは、彼女に完全に心を奪われていた。
最初の公の場での一撃は、慈善パーティーだった。彼は私のパートナーとして出席するはずだった。彼が私のためにオーダーメイドさせたドレスを着て、三時間も待った。そして、スマホに飛び込んできた一枚の写真。キリアンの手がダリアの腰を独占欲たっぷりに抱き、彼女は頭を反らして笑っている。キャプションにはこうあった。『IT界の巨人、神崎キリアンとインフルエンサー綾小路ダリア、衝撃のデビュー』
私のデビューは、静かなタクシーでの帰宅。シルクのドレスが、まるで死装束のように感じられた。
それから、もっと小さく、もっと鋭い切り傷が続いた。私たちが貧乏で一枚のピザを分け合っていた頃から守ってきた、週に一度のディナーという唯一の神聖な習慣を、彼はキャンセルし始めた。彼のメッセージは短くなり、電話の回数も減った。広々としたミニマリストの豪邸で、彼はまるで幽霊のよう。ベッドの彼の側は、いつも冷たかった。
一方、ダリアの攻撃は執拗だった。彼女は、私のお気に入りのブランドのランジェリーを着た写真をDMで送りつけてきた。位置情報タグは、キリアンのプライベートジェット。彼女は「間違えて」、私たちの家に荷物を送ってきた。中には、彼女とキリアンの親密すぎる自撮り写真が、ご丁寧に額装されて入っていた。一つ一つの行為が、私の不安という傷口を抉るために、念入りに研がれたナイフだった。
でも、すべてを粉々に砕いた行為、私の悲しみを冷たく、硬く、復讐心に満ちた何かに変えた行為は、私自身とは何の関係もなかった。
弟のレオに関することだった。
私の弟、明るくて希望に満ちていたレオは、死にかけていた。珍しい遺伝子疾患が、彼の体を蝕んでいた。でも、新しい実験的な治療法に、一縷の望みがあった。それは天文学的な費用がかかり、キリアンだけが持つ資金とコネが必要だった。彼は約束してくれた。私の顔を両手で包み、目を見て言った。「美咲、レオのためなら、天だって動かしてみせる。何だってする」
私は彼を信じた。溺れる者が救命ボートにしがみつくように、その約束にしがみついていた。
先週、レオの主治医から電話があった。重要な電話だった。治療にはすぐに資金が必要で、72時間以内に設備を確保しなければならない。私はキリアンに電話した。声は恐怖と希望が入り混じって震えていた。
「キリアン、今よ。お金が必要なの。先生が…」
「今、会議中だ、美咲」彼は私の言葉を遮った。その声は遠く、苛立たしげだった。背景にかすかに猫の鳴き声が聞こえた。彼がダリアのために買ったばかりのペルシャ猫の声だと、すぐにわかった。「メールは後で見ておく」
彼が見ることはなかった。
その二日後、ニュース速報が私のスマホを照らした。『神崎キリアンの寛大さはとどまるところを知らない:IT界の巨人が綾小路ダリアのペットプロジェクト、数億円規模の野良猫保護施設に資金提供』
救命ボートは粉々に砕け散り、私は裏切りという氷の海で溺れるしかなかった。
レオは昨日、死んだ。
今、がらんとした病室の冷たい床に座り、消毒液の匂いが鼻をつく中、私は連絡先をスクロールしていた。私の親指は、八年間一度もダイヤルしたことのない名前の上で止まった。気まぐれで保存した、名前もない番号。ただの数字の羅列。それは、選ばなかった別の道、歩まなかった人生を象徴していた。
震える指で、メッセージを打ち込む。『助けて』
返事が来るとは思っていなかった。それは神頼み、虚空への必死の叫びだった。
しかし、一分も経たないうちに、スマホが震えた。
『何でもする。どこだ。すぐに行く』
熱く、重い一粒の涙が頬を伝い、画面に落ちた。それは奇妙で、空虚な慰めだった。
部屋の隅に設置された小さなテレビに目をやった。音は消されていたが、24時間ニュースが流れている。そこに彼がいた。キリアン。猫の保護施設の記者会見に出ている。彼は笑っていた。ここ数ヶ月、見たこともないような、珍しく、心からの笑顔だった。彼はダリアの顔にかかった髪を優しく払い、その手つきはあまりに優しくて、私の胃はねじ切れそうだった。
画面の下のテロップにはこうあった。『新たな命の綱:綾小路ダリア、新たな始まりを祝う』
私の視線は、ベッドサイドテーブルの上の、小さくて使い古された木製のオルゴールに落ちた。レオのもので、これだけはまだ片付ける気になれなかった。それは調子の外れた「きらきら星」を奏でた。キリアンが彼に買ったものだった。
彼が初めて開発したアルゴリズムが売れた年、埃っぽい質屋で見つけたものだ。私たちはまだ、いつも湿った服と漂白剤の匂いがするコインランドリーの二階の、狭いワンルームに住んでいた。キリアンは当時、幽霊のようだった。児童養護施設を出て、着の身着のまま、世界を焼き尽くさんばかりの炎を目に宿した、聡明で怒れる少年。
私は、彼が何時間も座って、一杯のコーヒーで粘り、ナプキンに複雑なコードを書き殴っていたファミレスのウェイトレスだった。私は彼に残飯を渡し始め、彼がアパートを追い出された時にはソファを貸した。私が最初に彼を信じ、その怒りの下に隠された天才を見出した人間だった。
私たちは一個のラーメンを分け合う仲から、数千億円の資産を共有する仲になった。私たちの生活は一変したが、私たちの絆の核は、変わらないと思っていた。
「家族を持とう、美咲」何年も前、今では私たちの家となったガラスと鉄の要塞で、彼は私に囁いた。「本物の家族を。俺たち二人が一度も持てなかったものを。君と子供たちのために、何者にも触れられない、安全な世界を築いてやる」
その約束は今、残酷な冗談のように感じられた。彼はダリアのために世界を築き、彼女の猫たちのために聖域を作っていた。一方で、私の弟の世界は、瞬く間に消え去った。
魂が引き裂かれるような嗚咽が、私の体を揺さぶった。私はレオのオルゴールを手に取った。その安っぽい木が肌に冷たく、胸に強く抱きしめた。
私は再びスマホを開き、キリアンとの最後のメッセージのやり取りを、無感覚にスクロールした。病院に電話してほしい、私の電話に出てほしいという、私の必死の懇願。彼の返信は散発的で、ぞんざいだった。
『忙しい』
『会議中』
『話せない』
そして、猫の保護施設に関するニュース速報の日付を見た。それは、私たちの記念日だった。彼がアイルランドの風吹きすさぶ崖の上で、私に永遠の献身を誓ってプロポーズした日。彼はその日を彼女と過ごし、彼女を祝い、私の弟の命を救うはずだった金で、彼女の気まぐれに資金を提供していたのだ。
私が彼に送った最後のメッセージは二日前。『レオの容態が悪化してる。お願い、キリアン。あなたが必要なの』
彼は、返信しなかった。