ガス爆発で死んで4年, 幽霊となった私は, 片時も離れず娘の結愛を守ってきた.
だがある日, 元夫であり世界的建築家の高沢遼が, 私たちの前に現れる.
彼は私が死んだことを知らず, 娘を「私への復讐の道具」だと決めつけた.
「おい, そこの女. 母親に伝えておけ. 養育費目当ての芝居はやめろとな」
彼は冷酷に言い放ち, 私を苦しめるためだけに親権を奪おうと裁判を起こす.
法廷で「あんな女, 死んでもいい」と彼が叫んだその時, 幼稚園の先生が震える声で真実を告げた.
「待ってください高沢さん! 綾乃さんは... 4年前に事故で亡くなっています! 」
その瞬間, 法廷は静まり返り, 彼の傲慢な表情が音を立てて崩れ落ちた.
第1章
ガス爆発で死んだはずの私が見たのは, 私の娘をまるで他人事のように扱う, 元夫の冷酷な顔だった.
私は佐々木綾乃. 四年前, 古い木造アパートで命を落とした. 派遣社員として働きながら, 高沢との離婚後, 一人で結愛を育てていた私にとって, それは突然すぎる終わりだった. 意識が闇に飲まれ, 次に目を開けた時には, 私の体はすでにそこにない. 私は幽霊となっていた.
それ以来, 私はたった一人残された娘, 結愛のそばを離れずにいる. 結愛は当時, まだ幼く, 私の死の意味を完全には理解していなかっただろう. ただひたすら, 「ママ, ママ」と泣き続ける結愛の姿は, 私の胸を張り裂けさせた.
私の体はもう存在しない. どんなに抱きしめたくても, 私の腕は結愛の体をすり抜ける. どんなに声をかけても, 私の言葉は結愛の耳には届かない. 私はただ, 彼女のそばにいることしかできない無力な存在だ. 幽霊になった今も, この無力感だけが私を苛む.
幸い, 私の幼馴染である藤原成則が結愛を引き取ってくれた. 彼は商店街で小さな花屋「藤原生花店」を営む, 穏やかで心優しい男性だ. 成則は私の秘めた想いを知らない. いや, 知っていたとしても, 彼にとっては過去の夢物語に過ぎないだろう. 彼は独身のまま, 自分の子どものように結愛を育ててくれている. その優しさは, 私をどれだけ救ったか分からない.
結愛は今, 五歳. 成則の深い愛情に包まれ, すくすくと育っている. 私の面影を残しながらも, 彼女はいつも明るく, 好奇心旺盛な女の子に成長した. しかし, ある日, 全てが変わった.
幼稚園の帰り道, 結愛が友達とふざけて, 高級車に泥を跳ね上げてしまったのだ. ちょっとしたトラブルだったはずなのに, 事態は思わぬ方向へ転がっていった. 車の持ち主が, 私の前に立ちはだかる.
高沢遼. 私の元夫だ.
彼の顔を見た瞬間, 私の心臓は有無を言わさず締め付けられた. 幽霊になった今でも, こんな激しい痛みが走るなんて. 私は彼から逃げたはずだった. 彼との関係が, 私を窒息させる支配的な愛だと気づいた時, 私は妊娠を隠して彼のもとを去った. それなのに, 死んでなお, 彼が私の前に現れるなんて.
「おい, そこの女. 自分の娘が何をしたか分かっているのか? 」
高沢の声は, 研ぎ澄まされた刃のように鋭く, 私と成則の間に突き刺さった. 彼は, 私が死んだことを知らない. 「養育費目当ての狂言だろう」とでも思っているのだろうか. 彼の目は, 私を見下すような, 冷たい輝きを放っていた.
認めない. 彼と結愛が親子だと, 私は絶対に認めない.
高沢の唇が, ゆっくりと弧を描いた. それは笑みと言うにはあまりにも冷たく, 怒りを秘めていた. その視線が, 結愛に向けられた瞬間, 高沢の笑みはさらに深くなった. まるで, 面白い獲物を見つけたかのように.
「随分と, 私に似ているじゃないか. この子は君の, 何のつもりの子だ? 」
彼の言葉は, 結愛の存在を否定しているように聞こえた. そんなはずはない. 結愛は, まぎれもなく彼の子どもだ. 私の目から, 止めどなく涙が溢れ出した. 悔しい. 理不尽だ. この男は, 私の全てを奪っておきながら, まだ私を苦しめるのか.
もう二度と, 彼とは会いたくない. いや, 会わせたくない. 結愛に, 彼の顔を見せたくない. 私の過去は, 結愛には関係ないのだから.
成則は冷静だった. 「申し訳ありません, 高沢さん. 泥一つで済む話です. 弁償させていただきます. 」彼は結愛を自分の後ろに隠すようにして, 高沢に頭を下げた. 成則は, 昔から高沢の動向を気にかけていた. 彼がどれほど出世し, どれほど華やかな生活を送っているかを. 高沢は今や世界的な建築家として名を馳せている.
その時, 高沢の隣に立っていた女性が, ゆっくりと私たちの方に歩み寄ってきた. 広川桃歌代. 高沢の現在の婚約者だ. 大手ゼネコン令嬢でインテリアデザイナー. 彼女は高沢の才能に惚れ込んでいるが, 彼の心の中にまだ私がいることを敏感に察知している.
桃歌代は結愛の顔を見て, 一瞬, 目を見開いた. その動揺は, 私にしか分からない, わずかなものだったけれど, 結愛が私に瓜二つであることに気づいたのだろう. 彼女は高沢の腕にそっと手を添え, 優雅に微笑んだ.
高沢はその手を振り払わない. 私の胸に, ずしりと重い鉛が落ちた.
最近, 二人の婚約準備がメディアを賑わせているのを知っている. 大手ゼネコン令嬢の広川桃歌代と, 天才建築家・高沢遼. 彼らの未来は, きっと輝かしいものになるだろう. 私と結愛が, 存在しないかのように.
高沢は表情一つ変えず, 懐から名刺を取り出し, 結愛に差し出した. 「これに連絡しろ. 賠償の件でな. 」
結愛は名刺をじっと見つめ, 怯えたように成則の服を掴んだ.
「お母さんに伝えておくんだぞ. 」
高沢の言葉が, 周囲の空気を凍らせた. 彼は, 私が生きていると信じている. いや, 信じているふりをしているのだろうか. 私を捨てた裏切り者として, 私を貶めようとしているのかもしれない.
傲慢だ. この期に及んで, まだ私を責めているつもりなのだ.
成則は結愛を抱き上げ, 私たちをその場から遠ざけようとした. できるだけ早く, 高沢の視界から消え去るように.
それ以来, 結愛は上の空だった. 幼稚園から帰ってきても, 遊びに夢中になることもなく, 窓の外をぼんやりと眺めている. 高沢との出会いが, 彼女の小さな心に深い影を落としたのは明らかだった.
夕食時, 結愛は普段の明るさを失ったまま, 成則の顔を真っ直ぐに見つめた. 震える声で彼女は尋ねた.
「ねぇ, 成則おじちゃん. 今日会ったあの人, 私の…パパなの? 」
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