燃え盛るテントの中で, 婚約者の晴斗は私と目が合った.
助けを求める私に背を向け, 彼は浮気相手の女を抱きかかえた.
「ごめん, 凛花が怖がってるんだ! 」
そう言い残し, 彼は私を炎の中に置き去りにした.
私の「神の鼻」と呼ばれる調香の才能で会社を大きくしたのに, 彼は私をあっさりと見捨てたのだ.
奇跡的に一命を取り留めた私を見て, 彼は安堵していた.
私が死ねば, 自分の悪事が露見するからだ.
彼は私がショックで記憶喪失になったと信じ込んでいる.
いいえ, 私は全部覚えている.
彼が私を殺そうとしたことも, あの女と嘲笑っていたことも.
私は虚ろな目を装い, 彼の最大のライバルの名前を口にした.
「あなたは誰? 私の恋人は, 古沢幸佑さんだけよ」
さあ, 地獄を見せてあげる.
第1章
辻本藍子 POV:
彼の言葉は, まるで熱い灰を心に直接投げ込まれたようだった. 「ごめん, 凛花が怖がってるんだ! 」そう言って, 晴斗は炎に包まれたテントの中で私を置き去りにした. 私の世界は, その瞬間に崩れ去った.
彼, 川津晴斗. 老舗化粧品メーカー「川津コスメ」の御曹司で社長. そして私の恋人だった人. 彼のために, 私はこの3年間, 影で支え続けてきた. 私の「神の鼻」と呼ばれる嗅覚と調香の才能を, 惜しみなく彼に捧げた. 彼の会社が成功したのは, 私のフレグランス開発のおかげだと, 誰もが知っていた. 彼はいつも私にとって, 太陽のような存在だった. 明るくて, 自信があって, 少しだけわがまま. それが彼の魅力だと, 私はずっと信じていた.
しかし, その輝きはいつの間にか別の方向を向いていた. 若くて美しいインフルエンサー, 桜庭凛花. 彼女は天使のような笑顔の裏で, ブランド品を際限なく求める極度の金遣いの荒い女だった. 晴斗は, そんな彼女の若さと無邪気さに溺れていった. 私の献身は, 彼にとって「当たり前」のものになっていた. 彼の視線はもう私にはなく, いつも凛花を追いかけていた.
その日の豪華グランピングパーティーは, 晴斗が凛花のために企画したものだった. 私は最初から嫌な予感がしていたけれど, 晴斗の機嫌を損ねたくなくて, 何も言わずに従った. 夜が更け, 焚き火が燃え盛る中, テントの中で過ごすはずだった. しかし, 何かの手違いで火災が発生した. あっという間に炎はテントを包み込み, 煙が充満した.
私はパニックになった. 息ができない. 晴斗に助けを求めて手を伸ばした. 彼はすぐそこにいた. 一瞬, 彼の目が私を捉えたように見えた. でも, 次の瞬間, 彼は迷わず凛花を抱きかかえ, 炎の中から脱出していった. 「ごめん, 凛花が怖がってるんだ! 」その言葉だけを私に残して.
私はその場で崩れ落ちた. 炎と煙が視界を奪い, 肺が焼け付くような痛みに襲われた. 幼い頃, 川に落ちて溺れかけた記憶がフラッシュバックした. 水への恐怖が, 今は炎と煙への恐怖に変わっていた. 体の感覚が急速に薄れていく. 周りの人々のざわめきや悲鳴が, 遠い幻のように聞こえた. 誰かが私に気づいていないか, 必死に目を凝らした. 助けを求める声は, もう喉から出てこなかった.
凛花は, 晴斗の腕の中で怯えた顔をしていた. でも, その瞳の奥には, どこか満足げな光が宿っていたように見えたのは, 私の錯覚だったのだろうか. 晴斗は私に目を向けることなく, 凛花を抱きしめて安全な場所へと急いだ. 彼は私を見捨てたのだ. 3年間, 彼の成功のために全てを捧げてきた私を, 彼は何の躊躇もなく見捨てた.
意識が遠のく中, 私は思った. ああ, これが, 私が愛した男の正体だったのか. 私の献身を, 私の才能を, 私の存在を, 全て踏みにじった男. そして, 私の愛は, 憎悪へと変わっていった. 助けを求める私の声は, もう誰にも届かない. 私を嘲笑うかのように, 炎はさらに激しく燃え盛った. このまま死んでしまうのだろうか. その時, 誰かの手が, 私の腕を掴んだ.
奇跡的に私は炎の中から救助された. しかし, 煙を吸い込んだせいで意識不明の重体となり, 生死の境を彷徨った. 数日後, 目を覚ました私は, ぼんやりとした病室の天井を見つめていた. 体が重い. 頭が痛い. そして何よりも, 心が焼け焦げたように虚ろだった.
「藍子さん! 目を覚ましたのね! 」母が泣きながら私の手を握った. 父も心配そうに傍らに立っていた. 彼らの顔を見て, 私は静かに決意を固めた.
晴斗が病室に現れたのは, 数時間後のことだった. 彼の顔には, 疲労と安堵が入り混じっていた. 彼は私の手を握り, 「藍子, 目が覚めてよかった. 本当に心配したんだ」と言った. その言葉には偽りの安堵と, 安堵の裏に隠された自己保身が見え隠れした. 彼が本当に心配していたのは, 私の命が助かったことで, 自分が罪に問われる可能性が低くなったことだけだろう. 私は彼の目を真っ直ぐに見つめ, 冷たく突き放した.
「あなたは... 誰ですか? 」私の声は, 私自身でも驚くほど冷徹だった.