西浜竜一が帰ってくる. そのたびに, 私は特別な思いでこの瞬間を待っていた. 彼を婿養子として迎えてから三年. この老舗旅館「土屋」の女将として, 彼を支え, この家を守るために, 私は自分のすべてを捧げてきた.
玄関の引き戸が開き, 期待に胸を膨らませた私の目に飛び込んできたのは, 見慣れた夫の姿…だけではなかった. 彼の隣には, 見知らぬ若い女が立っていた.
その女は, 竜一の腕にそっと手を添え, 彼の顔を見上げて微笑んだ. まるで, 私がここにいないかのように.
私の心臓が, 冷たい水の中に沈んでいくような感覚に襲われた. 呼吸が浅くなり, 指先が痺れてくる.
女は, 竜一よりも一歩前へ出て, 私に深々と頭を下げた. 「土屋亮美様, 初めまして. 荻野萌紗と申します. 今日から, こちらでお世話になります. 」
その声は, 驚くほど澄んでいて, まるで無邪気な子供のようだった. だが, 彼女の目が私に向けられた瞬間, 私はその奥に潜む冷たい光を見た. 彼女の腹部は, 明らかに膨らんでいた.
私を試しているのか. この女は, 私がどれだけ愚かだと思っているのだろう.
「お世話になります, とは? 」私の声は, 私自身が驚くほど冷静だった. まるで, 他人事のように.
萌紗は, 再び竜一を見上げた. その表情は, 不安と期待が入り混じった, 完璧な演技だった.
竜一は, 私の目を見ようとしなかった. 彼は萌紗の背中に手を回し, 少しだけ前に押し出した. 「萌紗は, 俺の経営コンサルタントだ. これからは, うちの旅館で働いてもらう. 」
経営コンサルタント? 私は心の中で冷笑した. この女の腹が, 一体何の経営コンサルティングをするというのか.
萌紗は, まるで恐る恐るといった様子で, 膨らんだ腹をそっと撫でた. 「あの…土屋様. ご迷惑をおかけすることもあるかと思いますが, どうぞよろしくお願いいたします. 」
その言葉を聞いた瞬間, 私の頭の中で何かがカチリと音を立てた. 全てが繋がった. 彼女は, この旅館に住み着くつもりなのだ. そして, 生まれてくる子供を, 土屋の跡取りにするつもりなのだ.
竜一は, 萌紗の肩を抱き寄せ, 私をまっすぐ見据えた. その目には, 挑戦的な光が宿っていた. 「亮美. 萌紗は, これからの土屋にはなくてはならない人材だ. 彼女には, 離れを準備してくれ. 」
彼の言葉は, 私の耳には届かなかった. 私の視線は, 竜一と萌紗が寄り添う姿に釘付けになっていた. かつて, 竜一が私にだけ向けていた, あの優しい眼差し. あの温かい腕. それらが, 今, 別の女に向けられている.
私の喉の奥から, 乾いた笑いがこみ上げた. 「離れ, ですか. 随分と, 大きな荷物のようですね. 」私の視線は, 玄関に山積みになった萌紗のスーツケースに向けられた. まるで, 引っ越しでもしてきたかのような量だ.
竜一は, 私の言葉を無視した. 「萌紗, 疲れただろう. 部屋に案内する. 」彼は萌紗の腰に手を添え, まるで壊れ物を扱うかのように優しく, 奥へと歩き始めた.
萌紗は, 私に振り返り, 悪びれる様子もなく微笑んだ. その笑顔は, 私を嘲笑っているかのようだった.
私はその場に立ち尽くした. 心臓が, 鉛のように重く, 床に沈んでいく.
階段を上る二人の足音が響く. そして, その音に混じって, 竜一の優しい声が聞こえてきた. 「無理するなよ. お腹の子に障るからな. 」
私の体中の血が, 一瞬で凍り付いた. あぁ, そうだった. この男は, 私には一度もそんな優しい言葉をかけてくれたことはなかった. 私が不妊治療で苦しんでいた時も, 彼はいつも私を責めるばかりだった.
私の視線は, 玄関に置き去りにされた萌紗の荷物に落ちた. その一つ一つが, 私の存在を否定しているかのようだった.
「亮美さん, どうしたんですか? 」背後から, 心配そうな声がした. 住み込みの番頭さんだった.
私は, 何も答えられなかった. ただ, 全身が震え, 胸の奥が締め付けられるような痛みに耐えていた.
その時, 二階から竜一の声が響いてきた. 「父さん, 母さん! 萌紗を連れてきたぞ! 」
義両親の声が, 興奮気味に聞こえてきた. 「おぉ, 竜一! よくやった! 」
私は, 階段をゆっくりと上った. 足取りは重く, まるで鎖に繋がれているかのようだった.
二階の広間では, 義両親が萌紗を取り囲み, まるで失われた宝物を見つけたかのように歓声を上げていた.
「萌紗ちゃん, よく来てくれたね! お腹の子は順調かい? 」義母の声は, 私に向けられる時とはまるで違う, 甘ったるい声だった.
萌紗は, 伏し目がちに微笑んだ. 「はい, おかげさまで. 西浜様ご夫妻には, ご迷惑をおかけしてばかりで…」
「何を言ってるんだい! 可愛い孫のためなら, どんな苦労も惜しまないよ! 」義父が, 萌紗の肩を叩いた.
私の耳に, 竜一の声が届いた. 「父さん, 母さん. 萌紗は, 俺の, この土屋の未来を背負ってくれる子だ. 亮美は…」彼の言葉は, そこで途切れた. 彼は私に気づいたのだ.
義両親も, 私に気づいた. 彼らの顔から, 先ほどの笑顔が消え失せ, 警戒と不満の色が浮かんだ.
私の心臓は, もう痛みを感じなかった. ただ, 冷たく, 重く, そこにあるだけだった.
「亮美, どうしてそこに突っ立っているんだ? 萌紗に挨拶しないのか? 」義父の声は, 私を咎める響きを含んでいた.
「わたくしは, もう挨拶を済ませました. 」私の声は, 感情を失っていた.
「水臭いことを言うんじゃないよ. 家族になるんだから, もっと親睦を深めないと. 」義母が, 私を萌紗の隣に押しやった.
家族? 私は心の中で吐き捨てた. この女が家族? 私を裏切り, 傷つけた女が?
「亮美は, 子供ができないからな. まさか, 竜一がお前を見限って, 別の女に子供を産ませるなんて…」義母の言葉が, 私の心臓をえぐった.
そう, 私は子供ができない. 何年も不妊治療を続けてきた. その間, 竜一は私を責め続け, 義両親からのプレッシャーは日に日に増していった. しかし, 私には分かっていた. 本当は, 竜一に問題があることを. だが, 彼のプライドが高すぎるため, 私はその事実を隠し続けてきた.
「そんなこと, 言わないでください, 奥様. 」萌紗が, わざとらしく義母の腕に触れた. 「亮美様のお気持ちも, お察しいたします. 」
その言葉は, 私の心をさらに深く傷つけた. 憐れんでいるのか? この女は, 私を憐れんでいるのか?
「萌紗ちゃんは優しいねぇ. それに比べて, 亮美は…」義父が, 私を睨んだ.
私は, 彼らの視線から逃れるように, 窓の外を見た. 庭の桜は, もう散り始めていた.
「亮美さん, お願いがあります. 」萌紗が, 私の腕にそっと触れた. 「私, 赤ちゃんを授かったんです. でも, 亮美さんのように立派な女将さんにはなれません. どうか, 生まれてくる子を, 土屋の跡取りとして, 育てていただけませんか? 」
萌紗の言葉に, 義両親の目が輝いた. 彼らは, まるで救世主が現れたかのように, 萌紗を見つめていた.
「もちろん, 萌紗ちゃん! 亮美には, その器量がないからねぇ. あんたが産んでくれるなら, 喜んで養子にするよ! 」義母の声が, 広間に響き渡った.
私の全身から, 力が抜け落ちるのを感じた. 彼らは, 私からすべてを奪おうとしている. 私の夫, 私の家, そして, 私の人生を.
「亮美, 何も言うことはないのか? 」竜一の声が, 私の耳に届いた. その声には, 嘲笑と勝利が混じっていた.
私は, ゆっくりと竜一に顔を向けた. 彼の目を見た. そこには, かつての愛の欠片も残っていなかった. あるのは, 私を支配し, 弄ぶ快感だけだった.
私は, 口を開いた. 「…萌紗さんの言う通り, 私は女将の器ではないのかもしれませんね. 」
その言葉を聞いた瞬間, 竜一の顔に満足の色が浮かんだ. 義両親は, 顔を見合わせてニヤリと笑った. 萌紗は, 勝利を確信したかのように, 満面の笑みを浮かべた.
「では, 萌紗さんに, 女将の座をお譲りください. そして, この子の母親として, しっかりとお務めください. 」私の言葉は, 広間に響き渡った.
萌紗の笑顔が, 一瞬で凍り付いた. 「え…? 」
「竜一も, 萌紗さんも, そしてお義父様もお義母様も, この家から出て行ってください. 」私の声は, 氷のように冷たかった.
竜一の顔から, 血の気が引いた. 「亮美, 何を馬鹿なことを言っているんだ! 」
私は, 彼らをまっすぐ見据えた. 「この家は, 土屋の家です. 西浜家のものではありません. あなた方が, この家を乗っ取ろうとするなら, それは私が許しません. 」
「黙れ! この家は, もう俺のものだ! 」竜一が, 私に掴みかかろうとした.
その瞬間, 私は義母が大切にしている, 亡き祖母の形見である人間国宝作の着物を萌紗に与えようとしていたことを思い出した. 妊婦の安産祈願によい, などとわけのわからない理由をつけて.
私の心臓が, 怒りで爆発しそうになった. この期に及んで, まだ私を侮辱するのか.
「亮美, お前は…! 」竜一の声が, 広間に響き渡った.
私は, 彼らの顔を一人一人見つめた. その目には, 憎しみと決意が宿っていた.
「私の言葉が, そんなに気に食わないの? 」私の声は, 低く, 冷たい. 「ふふ…. まだ, 何も始まっていませんよ. 」
その言葉を聞いた瞬間, 竜一の顔が歪んだ. 義両親も, 顔色を変えた. 萌紗は, 不安そうに竜一を見た.
私は, 彼らを嘲笑うかのように, ゆっくりと振り返った.
「面白い. 私も, あなた方の計画に乗ってあげましょう. 」私の声は, 広間に響き渡った. 「ただし, 勝つのは, 私です. 」
私は, 彼らを背にして, 広間を後にした. 私の足取りは, もう震えていなかった.