仁科 駆(にしな かける)と藤崎 花(ふじさき はな)は、誰もが認める「学園の黄金カップル」だった。
中学から高校まで、二人の名前は常にセットで語られてきた。駆は光り輝くサッカー部のエース、花は成績優秀なダンス部の主役。
誰もが、二人はこのまま同じ名門私立大学へ進み、おとぎ話の続きを紡ぐのだと信じて疑わなかった。
だが、花にとって現実は違っていた。
これは駆が新しい彼女に告白する一週間前のことだ。
「足首を捻挫した」と嘘をついて甘える転校生・水野 百合(みずの ゆり)を病院へ送るため、駆は花のダンス人生をかけた大事な決勝戦をすっぽかした。
空っぽの観客席で、花が受け取ったのは短いメッセージだけだった。
『悪い、急用ができた。次は必ず行く』
駆は、花の寛容さを当然の権利だと思っていた。
十年もの間、花が本当に離れていくことなどなかった。「部活の付き合い」「合宿」、あるいは他の女子からの「相談」。どんな理由で約束を破っても、花は最終的に許してくれた。花の愛は、彼にとって決して破れることのない「安全ネット」だったのだ。
そして今日、駆が百合に告白すると広まると、友人たちはこぞって賭けを始めた。
「花はどれくらい泣くと思う?」「百合にビンタするかな?」「駆が機嫌を取るのに何日かかるか見物だな」
この告白劇は、彼らの退屈な学園生活における最高のエンターテインメントになろうとしていた。
第1章
仁科 駆は、学園の中庭をバラとキャンドルで華やかに飾り立て、あの可愛い転校生・水野 百合に告白しようとしている。
彼は事前に根回しをして、私には絶対に内緒にしておくよう頼んでいた。
ただ、彼は知らない。おせっかいな誰かがとっくに私に教えてくれていたことを。
私が駆のことを好きで、彼と結婚することを夢見ているなんて、周知の事実だ。
今回、駆はその転校生に一目惚れし、本気で恋に落ちた。
私はきっと、泣いて喚いて大暴れするに違いない――誰もがそう予想していた。
こういう男女のドロドロ劇は、誰だって大好物だ。
みんな、私がぶち切れて修羅場を起こすのを、今か今かと待ち構えていた。
百合が顔を覆い、恥ずかしそうに頷く。周囲を取り囲んだ野次馬たちが一斉にスマホのカメラを向ける。
だが、駆が予想していた「修羅場」は起きなかった。
私は泣き叫んで乱入したりしなかった。
校舎の三階、渡り廊下の窓辺から、私はただ無表情にその光景を見下ろしていた。
百合を抱き寄せたとき、駆はふと視線を感じて顔を上げた。
彼の視線と、私の冷え切った視線が空中で交差する。
駆の口元に浮かんでいた勝利の笑みが、一瞬だけぎこちなく固まった。
そこには涙も、絶望もなかった。彼が知らない、虚無だけがあった。
告白は大成功に終わり、駆は新しい彼女を腕に抱きながら、心ここにあらずといった様子でスマホを取り出した。
友人たちの祝福を受け流しながら、彼は何度も画面を確認する。
泣き言のボイスメッセージや、長文の恨み言が届いているはずだと思ったのだ。
だが、画面は漆黒のまま。通知は一件もなかった。
その徹底的な沈黙は、どんなヒステリーよりも彼を苛立たせた。
「今夜は俺のおごりだ。見てたやつ、全員な」
駆は焦燥感を振り払うように声を張り上げた。
そのひと言に、クラスメートたちは一斉に歓声を上げた。
その時、ずっと人混みの外に立っていた私が、ようやく姿を現した。
目ざとい誰かが私を見つけ、すぐに叫んだ。「藤崎 花(ふじさき はな)だ、花が来た!」
「ほら見ろ、花が我慢できるわけないと思ったんだ」
「賭けは俺の勝ちだな」
駆はぱっと顔を上げ、私を見た瞬間、安堵したように口元を緩めた。
騒ぎを期待してざわつく周囲の視線を無視して、私はまっすぐ駆の前へと歩み寄った。
「花」
駆はあてつけのように百合をさらに強く抱き寄せ、私を見ながら淡々とした声で言った。
「恋ってものは、無理にどうこうできるもんじゃない」
「俺たちはもう十年以上の付き合いだし、あんまりひどいことは言いたくない。昔の縁もあるし」
「これからも、お前のことは妹みたいに思ってる」
「困ったことがあったら、いつでも頼ってきていい」
そう言い終えると、彼は声のトーンをぐっと落として続けた。「みんなが見てるんだ。もう騒ぐのはやめて、帰れ」
「駆」
私は彼の言葉を遮り、静かに一歩、前へ踏み出した。
彼はまた眉をひそめる。「花、言うことを聞け。また何を企んでる?」
私はふっと笑い、さっき腕から外したばかりのブレスレットを彼に差し出した。
それは彼が中学の時にくれたもので、私が五年間、肌身離さず身につけていたものだった。
「来たのは、これを返したかっただけ」
ブレスレットを見た駆の顔が、さっと曇った。
「これ、受け取って。もうあなたにまとわりつくつもりはないから」
駆は私をじっと見据え、声をさらに冷たくした。「こんな金、大したもんじゃない」
「いらないなら、捨てていいよ」
「またそういう気を引くための……」
その言葉を聞き終えるか終えないかのうちに、私はくるりと背を向けた。
そして、数歩先にある「燃えないゴミ」の分別ボックスへ向かい、ブレスレットを放り投げた。
カラン、と乾いた音が響く。躊躇いは一切なかった。
「前のプレゼントも、ぜんぶ捨てて」
そう言い残して、私は彼を一度も振り返ることなく、その場を後にした。
「ゲームオーバーよ、駆。お幸せに」
駆はその場に立ち尽くし、私の姿が完全に見えなくなるまで微動だにしなかった。
その顔色は、勝者のはずなのに冴えなかった。
そばにいた友人が慌てて空気を和ませようとした。「まあ、花はプライド高いからね。演技だよ、演技」
「駆、見ててよ。今夜中には絶対後悔して戻ってくるって」
「下手したら、俺らがいなくなった瞬間に、泣きながらゴミ箱漁ってるかもな」
それを聞いた駆は、無理やり口角を上げて笑った。「好きにさせておけ」