私は6度目の人工授精で, ようやく命を授かったばかりだったのだ.
この喜びを, 誰よりも愛する春斗に伝えようとしていた矢先だった.
胸の奥が, ぎゅっと締め付けられる.
痛みではない.
感情が凍り付くような, 冷たい感覚.
私は, 長年不妊治療に苦しんできた.
毎日のホルモン注射, 終わりのない検査, そして, 結果が出るたびに襲いかかる絶望.
何度, もう諦めようと思ったことか.
けれど, 春斗が「諦めないで. 一緒に頑張ろう」と言ってくれたから, 私はここまで来られた.
そう信じていた.
私の体は, 疲弊しきっていた.
妊娠判定が出た日, 私は喜びよりも先に, 安堵のため息をついた.
これで, やっと春斗に, 彼の家族に, そして何よりも自分自身に, 貢献できる.
そう思ったのだ.
スマートフォンを握りしめる私の手は, 冷たい汗で湿っていた.
写真に添えられたメッセージは, 簡潔で, そして私を嘲笑うかのようだった.
「春斗の子よ. おめでとう, 美心」
香菜からのメッセージだった.
その言葉は, 私の心を深くえぐった.
私は, 何のために苦しんできたのだろう?
この数年間, 私の全ては「子供」という一つの目標のためにあった.
春斗の笑顔が見たかったから.
彼との間に, 私たちの子を欲しかったから.
それなのに, 彼は, 私の知らないところで, 別の女性に, 別の命を授けていた.
しかも, その相手は, 家族同然に付き合いのある幼馴染.
私の絶望は, 底なし沼のように広がっていった.
その日の夜, 春斗はいつも通り帰宅した.
テレビでは, 彼が手掛けた最新の建築プロジェクトが特集されていた.
「若き天才建築家, 工藤春斗. その才能は留まることを知らない」
キャスターの声が, 軽やかに響く.
画面の中の春斗は, 自信に満ちた笑顔で, インタビューに答えていた.
「私のインスピレーションは, 常に妻です. 彼女の存在が, 私の創造力の源なんです」
そう言って, 彼はカメラに向かって微笑みかけた.
それは, まるで私に語りかけるような, 甘い言葉.
世間の人々は, 彼の言葉に感動し, 彼を「愛妻家」だと称賛した.
SNSでは, 「理想の夫婦」というハッシュタグが飛び交っていた.
私は, その全てを, 冷めた目で見ていた.
「私のインスピレーションは, 常に妻です」
その言葉が, 私の耳には, 何よりも残酷な嘲笑のように響く.
彼は, 私を愛していると公言しながら, 裏では別の女性と関係を持っていた.
それも, 子供まで作って.
私が喜び勇んで告げようとしていた妊娠の報告は, 今や, 彼の偽善を暴く凶器でしかなかった.
私は, 自分が震えていることに気づいた.
怒りか, 悲しみか, それとも絶望か.
感情がごちゃ混ぜになって, 何が何だか分からなかった.
ただ, 心臓が鉛のように重く, 全身が冷え切っている.
その時, 玄関のドアが開く音がした.
春斗が帰ってきたのだ.
私は, 慌ててスマートフォンの画面を消し, 胸ポケットに押し込んだ.
「ただいま, 美心」
春斗の明るい声が, リビングに響く.
彼は, いつものように私に近づき, 抱きしめようとした.
私は, 体が固まった.
彼の体から, 香水の匂いがした.
甘く, そして, どこか場違いな香り.
それは, 私のものではない.
「どうしたんだい? 顔色が悪いよ」
春斗が, 心配そうな顔で私の顔を覗き込む.
彼の言葉は, 私の耳には届かなかった.
私の頭の中は, 香菜のメッセージと, 春斗の偽りの言葉でいっぱいだった.
「何も…ないわ」
私は, かろうじて声を絞り出した.
震える声が, 自分でも情けなかった.
春斗は, 私の額に手を当てた.
「熱はないみたいだけど…少し疲れているのかい? 不妊治療, 無理しすぎたかな? 」
彼の言葉に, 私の心臓が凍り付いた.
不妊治療.
彼は, 私の苦しみを, 知っているはずなのに.
「大丈夫よ. ただ, 少し眠たいだけ」
私は, 作り笑顔を浮かべた.
演技は, 得意ではない.
けれど, 今は, この笑顔で彼を欺かなければならない.
春斗は, 私の言葉を疑うことなく, 安心したように微笑んだ.
「そうか. 無理はしないでくれ. 何があっても, 美心の体が一番大切なんだから」
彼の言葉が, 私の耳には, さらに深く突き刺さった.
何があっても.
彼は, 何を言っているのだろう?
その「何があっても」の中に, 香菜との間に子供を授かったことは含まれているのだろうか?
私は, 怒りと悲しみが入り混じった感情で, 春斗を見つめた.
彼は, 私の心の奥底を見透かすことなく, ただ優しく微笑んでいる.
「そうだ, 来週は結婚記念日だろう? 美心のために, 最高のサプライズを用意しているんだ. 楽しみにしていてくれ」
春斗の言葉に, 私の体は再び固まった.
結婚記念日.
その日, 私は, 彼に離婚届を突きつけるつもりだった.
最高のサプライズ.
それは, 私からの, 彼への最大の復讐になるだろう.
私は, 内心で苦笑した.
彼が私に最高のサプライズを.
私が彼に最高のサプライズを.
私たちは, 互いに, 最高の「サプライズ」を用意している.
私は, 春斗の言葉に, 何も答えることができなかった.
ただ, 心の中で, 復讐の炎が燃え盛るのを感じていた.
証拠を集めなければ.
彼の偽善を暴き, 彼を, 彼の家族を, そして香菜を, 深淵へと突き落とすための証拠を.
私は, 静かに頷いた.
「ええ, 楽しみにしてるわ」
私の声は, ひどく冷たかった.
春斗は, 私の冷たい声に気づくことなく, 満足そうに頷いた.
「美心からのプレゼントも, 楽しみにしているよ」
彼は, そう言って, 私にキスをしようと顔を近づけた.
私は, 無意識に体を引いた.
「ごめんなさい, 疲れてるから…」
私の言葉に, 春斗は少しだけ眉をひそめた.
しかし, すぐに優しい表情に戻った.
「そうか. 無理しなくていいよ. ゆっくり休んでくれ」
彼は, そう言って, リビングを出て行った.
リビングに一人残された私は, 胸ポケットからスマートフォンを取り出した.
もう一度, 香菜からのメッセージと写真を見る.
私の視線は, 写真に写る香菜の膨らんだお腹と, 春斗の優しいキスに釘付けになった.
「楽しみにしているよ, 春斗」
私は, 小さく呟いた.
その声は, 憎しみと決意に満ちていた.
私の復讐は, ここから始まるのだ.
春斗がリビングを出てしばらくすると, 私のスマートフォンが鳴った.
画面を見ると, 春斗の母親, 工藤幸江からのメッセージだった.
「美心さん, 明日の夜, 春斗と三人で食事をしましょう. 大事な話がありますから」
私は, メッセージを読み終えると, 冷たい笑みを浮かべた.
大事な話.
きっと, 私の不妊治療の進捗についてだろう.
そして, 香菜の妊娠のことも, もう知っているに違いない.
彼らは, 私に何を話すつもりなのだろう?
私は, メッセージに返信することなく, スマートフォンを置いた.
テーブルに置かれたグラスの水は, まるで私の心のように, 静かに揺れていた.
春斗の家族.
彼らもまた, 私の敵なのだ.
私は, 明日の夜の食事が, 私にとって, 彼らにとって, どのような意味を持つのかを考えた.
それは, きっと, 戦いの始まりになるだろう.
私は, 心の準備をしなければならない.
私は, 再び深く息を吸い込み, 冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んだ.
戦うために.
私のために.
そして, 私の子のために.
翌日, 春斗は朝から私の体調を気遣っていた.
「美心, 今日は体調はどうだ? 無理なら, 義母の誘いは断ってもいいんだぞ」
彼の言葉は, まるで私を思いやる優しい夫のそれだった.
私は, 作り笑顔で答えた.
「大丈夫よ, 春斗. お母様との食事は, いつも楽しみだから」
春斗は, 私の返事に安心したように微笑んだ.
「そうか. よかった. 母さんも美心に会いたがっていたからな」
彼の言葉に, 私の心はさらに冷え込んだ.
会いたがっていた.
きっと, 香菜の妊娠を私に伝えるためだろう.
そして, 私に, その子を受け入れさせようとするだろう.
私は, 春斗が会社に出かけた後, すぐに動き出した.
まずは, 証拠の収集.
香菜とのメッセージのやり取り, 春斗と香菜が一緒に写っている写真, そして, 彼らの行動を裏付けるあらゆる情報を集める.
私は, 元インテリアデザイナーとしての経験から, 情報収集には長けていた.
パソコンに向かい, いくつかのサイトを検索する.
春斗のSNSアカウント, 香菜のSNSアカウント.
そして, 彼らが関わっている全ての情報源を洗い出す.
数時間後, 私は, 大量の証拠を手に入れていた.
香菜が妊娠を公表していたSNSの投稿.
春斗がその投稿に「いいね」を押しているスクリーンショット.
そして, 春斗と香菜が一緒に旅行に行ったと思われる写真.
それらは全て, 私を裏切る決定的な証拠だった.
私は, それらの証拠を, 慎重にデータ化し, いくつかの場所にバックアップを取った.
これで, いつ何が起きても, 私は戦える.
そして, 幸江からのメッセージを思い出した.
「美心さん, 明日の夜, 春斗と三人で食事をしましょう. 大事な話がありますから」
私は, その「大事な話」が何であるかを, もう知っていた.
夕方, 春斗が帰宅した.
彼は, 私の顔色を見て, 少し心配そうな顔をした.
「美心, やはり無理はするな. 母さんは少し口うるさいところがあるから, もし何か言われても, 気にしなくていいからな」
春斗の言葉に, 私は内心で冷笑した.
口うるさい.
それは, 彼の母親が, 私に子供ができないことをなじり, 香菜の子供を養子に迎えさせようと画策していることを, 彼は知っているからだろう.
彼は, 私を心配するふりをしながら, 自分の母親の行動を隠蔽しようとしているのだ.
私は, 静かに頷いた.
「ええ, 分かっているわ. 大丈夫よ」
私の声は, いつもよりも少しだけ低かった.
春斗は, 私の言葉を信じたように, 安心した表情を浮かべた.
そして, 私を連れて, 彼の両親の家へと向かった.
彼の実家に向かう車の中で, 私は決意を固めていた.
これから始まる戦いに, 私は全身全霊で挑む.
彼らの偽善を暴き, 私の尊厳を取り戻すために.
そして, 私の子を守るために.
工藤家の広いリビングに足を踏み入れた瞬間, 私は耳にしたくない声を聞いた.
「まあ, 春斗くん, 美心さん, いらっしゃい. ちょうど香菜ちゃんが来たところだったのよ」
工藤幸江の声が, わざとらしく明るく響いた.
私の視線は, 声の元へと向けられた.
ソファには, 幸江の隣に座る北野香菜の姿があった.
そして, 彼女の膨らんだお腹は, 隠しようもなく存在感を放っていた.
香菜は, 私を見て, にこやかに微笑んだ.
その笑顔は, 私を嘲笑っているようにしか見えなかった.
私は, 目を見開いたまま固まった.
香菜が, ここに.
なぜ?
幸江は, 私と春斗に, ソファに座るように促した.
「さあ, 美心さん, 春斗. 座って座って」
幸江の表情は, いつも以上に上機嫌だった.
私は, 幸江の表情を見て, 確信した.
彼女は, 香菜の妊娠を, 喜んでいるのだ.
そして, その子を, 工藤家の跡継ぎとして迎え入れるつもりなのだ.
私の隣に座った春斗は, 私の顔色を伺うように, そっと私の手を取った.
その手は, 私には重く感じられた.
幸江は, 上機嫌な声で話を続けた.
「美心さん, 香菜ちゃんのお腹, 見てちょうだい. こんなに大きくなって」
幸江は, 香菜のお腹を撫でながら, 満足そうに微笑んだ.
その視線は, 私に向けられていた.
まるで, 私を挑発するかのように.
香菜は, 幸江の言葉に, 恥ずかしそうに微笑んだ.
「お義母様, もう」
その言葉に, 私の全身の血が凍り付いた.
お義母様.
彼女は, 幸江を「お義母様」と呼んだ.
その瞬間, 私の頭の中で, 何かが音を立てて崩れ落ちた.
幸江は, 私の反応を見て, さらに言葉を続けた.
「ねえ, 美心さん. この子, 春斗にそっくりでしょう? お腹の中にいるのに, もう春斗の面影があるのよ」
幸江は, そう言って, 香菜のお腹を指差した.
彼女の言葉は, 私への明確な挑発だった.
春斗は, 幸江の言葉に, 少しだけ顔をしかめた.
「母さん, 何を言っているんだ」
彼の声は, 少しだけ焦っているように聞こえた.
しかし, 幸江は春斗の言葉を無視し, 私を見つめた.
「美心さん, あなたには, 子供を産むことができなかった. でも, これで工藤家も安泰よ」
幸江の言葉は, 私の心を深くえぐった.
彼女の言葉は, 私にとって, 何よりも残酷な刃だった.
私の不妊治療の苦しみを, 彼女は知っているはずなのに.
春斗は, 幸江の言葉に, さらに顔色を変えた.
「母さん, もういい加減にしろ」
春斗の声は, 怒りに満ちていた.
しかし, 幸江は春斗の言葉に耳を貸さず, 話を続けた.
「美心さん. この子を, あなたの子として育ててちょうだい. そうすれば, あなたも, この子も, 幸せになれるわ」
幸江の言葉に, 私は全身の力が抜けるのを感じた.
私の子供として.
彼女は, 私に, 香菜の子を, 私の子供として育てろと言うのか.
私の心は, 完全に凍り付いた.
春斗は, 幸江の言葉に, さらに激しく怒った.
「母さん, いい加減にしろ! 美心に, そんなことを言うな! 」
春斗の声は, 怒鳴り声に近かった.
幸江は, 春斗の怒鳴り声に, 少しだけひるんだように見えた.
しかし, すぐに気を取り直し, 春斗を見つめた.
「春斗, あなたは何も分かっていないわ. これは, 美心のためでもあるのよ」
幸江の言葉に, 春斗は反論しようとした.
その時, 春斗の父親, 工藤健一が口を開いた.
「もういいだろう, 幸江. 美心さんも, 疲れているんだ」
健一の声は, 幸江の感情を少しだけ鎮めた.
私は, 感情が完全に麻痺しているのを感じていた.
痛みも, 悲しみも, 怒りも, 何も感じない.
ただ, 目の前の光景を, ぼんやりと見つめているだけだった.
私の体は, 鉛のように重く, 全身が冷え切っている.
頭の中は, 真っ白だった.
彼らは, 私を, 何だと思っているのだろう?
私は, ただ, 人形のようにその場に座っていた.
春斗は, 私の顔色を見て, 心配そうな顔をした.
「美心, 大丈夫か? 」
彼の声は, 私には遠くに聞こえた.
その時, 香菜が, わざとらしく私に微笑みかけた.
「美心さん, お辛いでしょう? でも, この子も, きっと美心さんに懐いてくれますよ」
香菜の言葉は, 私の心を深くえぐった.
彼女の言葉は, 私への明確な挑発だった.
私は, 香菜の言葉に, 何も答えることができなかった.
ただ, 心の中で, 復讐の炎が, さらに激しく燃え盛るのを感じていた.