私は, 誰もが羨む完璧な家庭を築いていた. カリスマ建築家の夫と, 私を「ママが一番好き」と言ってくれる息子. 彼らに尽くすことが, 私の全てだった.
しかし, その全てが嘘だったと知った. 夫は不倫し, 私の愛する息子までが, その女を「ママ」と呼んで二人を庇っていたのだ.
結婚記念日, 夫は盛大なサプライズで私のご機嫌を取ろうとした.
そこへ不倫相手の女が現れ, 公衆の面前で嘲笑うように私との関係を暴露した.
息子は私ではなく, その女を選んだ.
愛も, 信頼も, 家族も, 全てを失った私の心は, 憎しみの炎だけが燃え盛っていた.
私は失踪屋に連絡し, 自らの死を偽装した. 翌朝, ニュースは「長谷部直世, 海難事故で死亡」と報じる. これは, 私から全てを奪った彼らへの, 復讐の始まりに過ぎない.
第1章
私は, あの氷のような夜の出来事を決して忘れない.
闇に包まれた部屋で, 私は電話を手にしていた.
指先が震えることもなく, 冷たい画面をなぞる.
心臓は鉛のように重く, しかし鼓動はどこか遠くで鳴っているかのようだった.
「失踪屋サービスをお願いします」
私の声は, 私自身が驚くほど冷静だった.
まるで他人事のように, 淡々と用件を伝えた.
電話の向こうから, 低い男の声が返ってくる.
感情のない, 事務的な声だった.
それが私には, 妙に心地よかった.
「ご希望のサービス内容は? 」
私は, 用意していた言葉を淀みなく口にした.
感情の波が一切ない, 完璧な依頼内容.
私の唇から紡がれる言葉は, まるでどこか遠い国の言語のようだった.
一つ一つの単語が, 私と「長谷部直世」という存在を切り離していく.
「完璧な偽装死. 遺体は発見されない形で」
男は一瞬, 沈黙した.
私の言葉に, 彼でさえも驚いたのかもしれない.
しかし, すぐにプロフェッショナルな声に戻った.
淡々とした受け答えが, 私の決意をさらに固める.
「承知いたしました. 具体的な期日はございますか? 」
期日.
その言葉を聞いた瞬間, 私の脳裏に鮮明に浮かんだのは, ある日付だった.
私たちの「結婚記念日」.
笑ってしまうほど皮肉な, その日.
私がこの世から消えるのに, これ以上ふさわしい日があるだろうか.
「はい. 来月の結婚記念日にお願いします」
男は, 私の返答に一切の動揺を見せなかった.
ただ, 静かにメモを取る音が聞こえるだけだ.
契約内容を読み上げ, 私はただ「はい」と答えた.
私の世界から, 過去が, 未来が, 今まさに切り離されようとしている.
電話を切った後, 私は深いため息をついた.
肩の荷が下りたような, しかし同時に, 何かが決定的に壊れたような感覚.
卓上に置かれた一枚の古い写真に目が留まった.
結婚式の写真だった.
白いドレスを纏った私と, 隣で優しく微笑む浩之.
そして, 小さな光翔が, 私たちの手を取って笑っている.
完璧な家族.
世間が羨む, 理想の家庭.
それが私の全てだった.
長谷部直世という女の存在意義そのものだった.
長谷部浩之はカリスマ建築家で, いつも私を「最高の妻だ」と褒め称えた.
光翔は私を「ママ, ママ」と呼び, 小さな手で私のスカートを掴んで離さなかった.
私は彼らに尽くすことが, 何よりの喜びだった.
十年前, 私は大きな悲劇に見舞われた.
私の唯一の肉親である妹, 真帆が不慮の事故で植物状態になったのだ.
その絶望の淵で, 私を救い出してくれたのが浩之だった.
彼は私の憔悴しきった姿を見ても, 一切引くことなく, 猛烈なアプローチを仕掛けてきた.
毎日のように私の元を訪れ, 真帆の病院代を惜しみなく出し, 私の心の傷を癒そうと尽力した.
「直世さん, 僕が一生をかけてあなたを幸せにする」
彼の言葉は, 絶望の闇に差し込んだ唯一の光だった.
私は彼の真摯な愛に, 心の底から救われた.
あの時, 私は本当に彼を信じていた.
そして, 彼のプロポーズを迷いなく受け入れた.
盛大な結婚式.
世間は私たちを「おとぎ話のようなカップル」と称賛した.
結婚してすぐに, 私は光翔を身籠った.
浩之は狂喜乱舞し, 私を宝物のように扱った.
出産時, 私は難産で危険な状態に陥った.
浩之は分娩室の前で, 神に祈り続けたという.
そして, 光翔が生まれた時, 彼は涙と共に私を抱きしめた.
「直世, ありがとう. 君と光翔, 二人とも無事で本当に良かった」
あの時の彼の言葉と表情は, 偽りではなかったと信じていた.
光翔が生まれてからの日々は, 絵に描いたような幸福だった.
浩之は仕事で忙しい中でも, 必ず家族の時間を大切にし, 私たちを愛してくれた.
光翔は「ママが一番好き! 」と言って, いつも私の膝に顔を埋めた.
浩之もまた, 私の健康を気遣い, 毎朝必ず温かいお茶を淹れてくれた.
光翔はそんな父の真似をして, 幼い手で私のお茶を淹れようとしたりもした.
本当に, 完璧な家庭だった.
しかし, その全てが, 今となっては滑稽な喜劇にすぎない.
あの, 運命を変えた日.
私は光翔の部屋で, 古いベビーモニターを見つけた.
ふと, 電源を入れてみたのだ.
それは, まるでパンドラの箱を開けてしまうかのような行為だった.
モニターから聞こえてきたのは, 浩之と光翔の声.
そして, もう一人の女の声.
最初は, 何かの間違いだと思った.
しかし, その女が光翔に語りかけるのを聞いた時, 私の体は凍りついた.
「光翔, ママのこと, 秘密だよ? 」
私は震える声で, 光翔に尋ねた.
「あのね, 光翔. 最近, ママ以外に『ママ』って呼んでる人いる? 」
光翔は一瞬, 顔色を変えた.
しかしすぐに, いつもの天使のような笑顔に戻った.
「いないよ, ママ! ママは直世ママだけだよ! 」
彼の心の声が, 私の脳裏に直接響いた.
私は信じられないという思いで, 光翔を見つめた.
私の息子は, 私に嘘をついている.
それも, あの男の不倫を隠すために.
その直後だった.
私のスマートフォンの通知音が鳴った.
差出人は, 見知らぬ番号.
メッセージを開くと, そこには浩之と, 彼の仕事仲間であるはずの桑名亜矢子の写真が添付されていた.
二人は互いの体に腕を巻き付け, 親密そうに微笑んでいる.
そして, その下には挑発的なメッセージが添えられていた.
『直世さん, あなたの夫はもうずっと私だけのものよ. 息子さんも, 私を「ママ」って呼んでくれるわ. 可哀想なあなた. 』
吐き気がした.
胃の底から込み上げてくるような, 耐え難い吐き気.
手足の震えが止まらない.
呼吸が浅くなり, 視界が歪んだ.
完璧な家庭?
愛?
信頼?
全てが嘘だった.
私は, 誰かのために演じられた喜劇の主人公でしかなかったのだ.
私は, 空っぽの目で結婚式の写真を見つめた.
あの日の幸福な笑顔は, 今や私を嘲笑っているように見える.
私は浩之にとって, 一体何だったのだろう.
彼のキャリアを支えるための, 飾り物の妻か?
それとも, 彼の不倫を隠すための, 完璧なダミーか?
そして光翔.
私の愛する息子は, いつから私を裏切っていたのか.
私は, もう一度電話を手に取った.
指先は, 今度こそ全く震えなかった.
失踪屋の男に, 契約を最終確定させる旨を伝えた.
私の人生は, もう終わりだ.
いや, 違う.
長谷部直世の人生は, ここで終わる.
新しい私が, ここから始まるのだ.
私は静かに立ち上がり, クローゼットの奥から一枚の書類を取り出した.
それは, 私の死亡保険金に関する書類だった.
受取人はもちろん, 浩之と光翔.
彼らは, 私の死によって, 金銭的な恩恵を受けることになるだろう.
だが, それは彼らが私に与えた苦痛に比べれば, あまりにも安い代償にすぎない.
私は書類を丁寧に折り畳み, 手のひらに握りしめた.
私の失踪は, 完璧な計画だ.
海難事故による死.
遺体は未発見.
そうすれば, 彼らは私が死んだと信じるだろう.
そして, 私の存在は, 彼らの心から永遠に消え去るはずだ.
私は窓の外に目を向けた.
夜の闇は深く, 星一つ見えない.
この闇の中で, 私はかつての自分を葬り去る.
そして, 新しい夜明けと共に, 全く別の人間として生き始めるのだ.
彼らが私を失ったことに気づいた時, その絶望は, 私が見た「真実」よりも, もっと残酷なものになるだろう.
復讐は, まだ始まったばかりだ.
私は, この手で, 彼らの完璧な世界を破壊する.
そう, 長谷部直世は死んだ.
そして, 新たな私が, 今, 目覚めたのだから.