翔悟は若手IT起業家としてメディアからもてはやされ, 私は類稀な才能を持つ若手バイオリニストとして注目されていた.
彼はプレゼンテーションで常に高評価を得ていたし, 私は学内オーケストラのソリストとして数々の舞台に立ってきた.
誰もが, 私たちの未来は輝かしいと信じて疑わなかった.
私自身も, そう信じていた.
彼が私を愛していると, 彼が私を必要としていると.
だが, あの日の彼の言葉は, 私の心を深く抉った.
彼の裏切りは, 私にとって人生で最も重要なコンクールの日だった.
佳実が彼に嘘をつき, 彼は私に何の連絡もなく, 最終予選を欠席した.
私は舞台の袖で, 震える手で何度も彼に電話をかけた.
繋がらない電話.
届かないメッセージ.
その瞬間, 私のプライドと心はズタズタに引き裂かれた.
「初穂は俺のコントロール下にいるから, 何をしても許してくれる」
彼のその言葉は, 私の耳に残り続けていた.
彼はいつも, 私の寛容さを利用してきた.
私がどれだけ傷ついても, 彼が少し優しくすれば, 私はすぐに許してしまうことを知っていた.
彼は私の愛を, 自分の都合の良い「セーフティネット」だとでも思っていたのだろう.
私がどれだけ尽くしても, 彼は私を対等なパートナーとは見ていなかった.
彼は, 私を所有物だと考えている.
私の才能も, 私の心も, すべてが彼のものだと.
「翔悟が金谷佳実に告白するらしい」
大学の廊下で, そんな噂が飛び交っていた.
「きっと成功するだろうね」
「金谷財閥の令嬢だもんね」
みんながひそひそと話していた.
「翔悟, 今回は本気なのかな? 」
「賭けてもいい. 初穂のことなんて, すぐに捨てるよ」
彼らは面白おかしく, 私たちの関係を品定めしていた.
翔悟の告白は, まるで学園祭の出し物のように, 大勢の生徒が集まる中庭で行われると決まっていた.
彼は私に「二人の秘密にしておこう」と言っていたが, その実, 彼はあらゆる手段を使って, このイベントを大々的に宣伝していた.
私は, 友人からのメッセージでその計画を知った.
「初穂ちゃん, 翔悟が今夜, 中庭で告白するって! 」
私は, そのメッセージを読んだ時, 心が空っぽになったようだった.
誰もが私が泣き叫んで, 告白を邪魔しに行くだろうと予想していた.
「初穂ちゃん, 大丈夫? 」
「私たち, 一緒に行くよ! 」
友人たちが心配そうに私に声をかけた.
だが, 私は何も感じなかった.
ただ, 静かに, 中庭を見下ろす校舎の屋上へと向かった.
中庭には, 数えきれないほどの生徒たちが集まっていた.
色とりどりの風船が空に舞い上がり, 甘い音楽が流れていた.
翔悟は, スポットライトの中心で, 金谷佳実に花束を差し出していた.
佳実がそれを受け取り, 彼の唇にキスをした瞬間, 歓声が沸き起こった.
生徒たちは一斉にスマホを取り出し, その光景を写真に収めていた.
私は, その光景をただ, 冷めた目で見下ろしていた.
誰も, 私がそこにいることに気づかない.
気づいたとしても, 私の存在など, 彼らの「お祭り」には何の影響も与えないだろう.
私は, 翔悟とその新しい恋人の顔を交互に見た.
翔悟は, まるで舞台役者のように, 満面の笑みを浮かべていた.
その笑顔が, 私と目が合った瞬間, わずかに硬直したのを, 私は見逃さなかった.
私の瞳には, 悲しみはなかった.
ただ, 虚無が広がっていた.
翔悟は, 告白が成功した後も, どこか落ち着かない様子で, 何度もスマホをチェックしていた.
「初穂から連絡が来るはずだ」
そう思っていたのだろう.
だが, 私のスマホは, 彼からの着信を一度も知らせていなかった.
やがて, 彼は焦燥感を隠すように, 友人たちに「今日は俺のおごりだ! 」と叫んだ.
その時, 私は静かに, 中庭の端に現れた.
「初穂だ! 」
「本当に来たぞ! 」
生徒たちの間に, ざわめきが広がった.
「ほら見ろ, やっぱり初穂は諦めないんだ」
「翔悟に泣きついて, 復縁を懇願するんだろうな」
彼らは, まるで観客のように, 次の展開を期待していた.
翔悟は, 私の姿を見て, 一瞬, 安堵の表情を浮かべた.
「やっぱり来たか. 俺に未練があるに違いない」
彼の顔には, そんな傲慢さが滲んでいた.
私は, 彼らの好奇の目に一切動じることなく, まっすぐに翔悟のもとへ歩み寄った.
「初穂, どうしたんだ? 何か用か? 」
翔悟は, 佳実の肩を抱き寄せ, わざとらしく親密な態度を見せた.
「佳実もいるから, 何か話があるなら後にしてくれ」
彼は, 私を妹か何かのように扱おうとした.
「何か困っているのか? またバイオリンの調子が悪いのか? 」
「俺に話してくれれば, いつでも相談に乗ってやるさ」
彼の言葉は, まるで施しを与えるかのようだった.
「初穂, もう行ってくれ. ここは君の来る場所じゃない」
「何か企んでいるんだろうが, 無駄だ」
彼は, 私の意図を疑い, 私を追い払おうとした.
私は, 彼の言葉を遮るように, 一歩, 前に踏み出した.
そして, 私の左手の薬指にはめていた, 彼との「定めの証」である指輪を, 静かに彼の掌に置いた.
その指輪は, 私たちがまだ子供だった頃, 彼が初めて私に贈ってくれたものだった.
「これ, 受け取って」
私の言葉に, 翔悟の顔色が変わった.
彼は, 指輪を見て, その意味を理解したようだった.
「初穂, これは…」
彼の声は, わずかに震えていた.
「もうあなたに関わる気はない. だから, これ, 返してもらうわ」
私は, 彼の目をまっすぐに見つめ, はっきりと告げた.
「まさか, この安物の指輪のために, こんな真似をするとはな」
「初穂, まだ俺に未練があるのか? 」
彼は, 私の行動を軽蔑し, 私を試すような言葉を吐いた.
私は, 何も言わずに, その指輪を掴み, 近くにあったゴミ箱に躊躇なく投げ入れた.
カラン, と乾いた音が響き, 指輪はゴミの山に埋もれた.
「あなたからのプレゼントは, 全部捨ててちょうだい」
「もう, あなたとは何の関係もないから」
私は, 振り返ることなく, その場を立ち去った.
私の背後で, 翔悟は呆然と立ち尽くしていた.
彼の顔は, まるで血の気を失ったように青ざめていた.
「翔悟, 大丈夫か? 」
「あんな女, すぐに後悔するさ. 放っておけよ」
彼の友人たちが, 慰めるように声をかけた.
「ああ, そうだな…」
翔悟は, 無理に笑顔を作り, まるで何も気にしていないかのように振る舞った.
だが, 彼の目は, 空っぽのゴミ箱の中に, 虚しく投げ入れられた指輪を探しているようだった.