「青木様、残念ながら着床は確認できませんでした」
白石秋子は検査結果の紙を握りしめた。指先が、ひどく冷たい。
もう何度目なのか、思い出すことさえできない。
結婚して七年。青木家の者は皆、跡継ぎの誕生を待ち望んでいるのに、腹にはなぜか、何の兆しもなかった。
夫婦生活も、民間療法も、体外受精も、手術も……試せることはすべてやり尽くした。
振り返り、主治医のドアをノックしようとした、そのとき——自分のことを話す声が聞こえてきた。
「……あの青木奥様、本当に気の毒よね。子宮内膜があんなに薄くて、体を酷使しすぎじゃない……」
「何が気の毒なの? 旦那様が子どもを望んでないって、知らないの?彼女がどんなに無理したって、ぜんぶ無駄よ……」
秋子は雷に打たれたように立ち尽くし、伸ばした手が宙で固まった。
(――雅人が、子どもを……望んでいない……?)
......
朦朧としたまま帰宅し、ベッドの上で身を縮めた。初夏の陽射しは柔らかいのに、体は震えるほど冷えていた。
マットレスがふいに沈み、強い酒の匂いに松脂の香りが混じって押し寄せた。
雅人が背後から抱き寄せ、熱を帯びた手のひらが慣れた動きでシルクのナイトウェアの中へ滑り込む。
「会いたかった?」
その指先は簡単に体の奥の震えを呼び起こすのに、心だけが、少しずつ冷え切っていった。
(今日、結果を取りに病院へ行ったことを、この男は知っている。それなのに、何も聞こうとしない)
「子どもが……また、駄目だった」掠れた声で、それだけを伝えた。
雅人の手が、はっきりと止まった。
しばしの沈黙のあと、感情の読めない落ち着いた声で言った——
「わかった。お疲れさま」
「これから2か月、出張に出る。体を大事にして、相葉おばさんに、滋養のあるスープでも煮てもらうといい」
そう言うなり、唇が落ちてきた。絡みつくような口づけは、酒に酔った男特有の強引さと熱を帯びている。
秋子は気が進まなかったが、抗うこともできず、なされるがままになるしかなかった。
彼はいつも優しく、彼女を傷つけることはなかった。
終わったあと、彼は彼女を抱いて浴室へ連れて行き、きれいにしてから再びベッドへ戻し、そのまま抱き寄せて眠りにつく。
それは、これまで幾度となく繰り返されてきた夜と何一つ変わらず、親密で、穏やかな温もりに満ちていた。
誰が見ても、この世で一番、仲睦まじい夫婦に見えた。
隣から聞こえる呼吸が次第に規則正しくなる一方で、秋子はまったく眠れなかった。
視線は自然と、ソファに無造作に置かれた雅人のブリーフケースへと吸い寄せられていった。
結婚して七年、一度も彼の持ち物を漁ったことはなかった。それが、青木奥様としての自制だった。
だがこの瞬間、雅人の寝顔を見つめたあと、秋子は静かにベッドを降りた。
数分後。
数通の至急書類の下から、白い錠剤のシートを指先で探り当てた。
それは――避妊薬だった!
秋子は、呆然とそれを見つめた。
妊娠に備えて、彼女自身は一度も口にしたことがなく、友人のもとで偶然見かけたことがあるだけだった。
「あんたたち、仲良しだから、ゴムなんて一生使わないでしょ?」と、そのとき友人にからかわれたものだ。
だが現実は、あまりにも残酷だった。病院で多少の覚悟はしていたはずなのに、胸の奥は風の吹き抜ける壁のように寒々しかった。
子どもを望んでいるはずの男が、なぜ避妊薬を持ち歩くのか?
浮気?
それとも……
秋子は、はたと思い当たった。青木雅人がいつも相葉さんに頼んで作らせていた、“あのスープ”のことに。
その瞬間、全身の血が引くような寒気に襲われた。
震える手のせいで、バッグの内ポケットから一枚の写真が落ちた。
縁が白く色あせ、指の脂で光っている——何度も手に取って撫でられてきた証だ。
写真の中では、少年が陽だまりのような笑顔で、慈しむように、ひとりの少女を腕に抱いていた……
「何をしている?」
雅人がベッドから降りると、写真を乱暴に奪い取り、鋭い視線を向けた。
「俺を調べたのか? 白石秋子、いつからそんなに聞き分けが悪くなった!」
秋子は、途方もない冗談を聞いたかのように笑い出した。涙が滲むほど、内臓がかき乱されるように痛むほどに。
「私が、聞き分けが悪い? それは……この何年も、あまりにも『聞き分けがよすぎた』から……」
笑い続けるうちに、突然、下腹部を刺すような激痛が走った。
意識が闇に沈む直前、最後に目に映ったのは、雅人の蒼白で動揺した顔だった……
......
「ゴホッ……ゴホゴホ……」
秋子ははっと目を開いた。先ほどの引き裂かれるような痛みが消えぬまま、鼻を刺す濃煙が流れ込み、激しく咳き込む。
「火事だ!早く逃げろ!」
「助けて……!」
耳元では悲鳴とどよめきが飛び交い、秋子は体を起こして、呆然と周囲を見渡した。
荒れ果てたテーブル、倒れた酒瓶、煙の中で歪みながら明滅するカラフルなスポットライト……
ふと、秋子の視線が、少し離れたソファへと吸い寄せられた。
見覚えのある影が、そこに深く倒れ込んでいる。泥酔し、意識を失っているようだ。
——安藤美咲!?
彼女は確か……七年前の、あの大火で亡くなったはずじゃ……?
秋子は何かを悟り、慌ててテーブルの上のスマートフォンを掴み、時刻を確認した。
【2019年5月18日午後10時50分】
秋子の呼吸が、瞬間、止まった。
――まさか。七年前、美咲が炎に呑まれた、あの夜に……戻ってきたのか?
これは……“生まれ変わり”なの?
火はますます勢いを増す。出口へ向かおうとした瞬間、足首をひねっていることに気づき、少し動かしただけで激痛が走った。
「バン――!」
轟音とともに、個室のドアが外から激しく蹴破られた。
濃煙を巻き込みながら、背の高い引き締まった人影が飛び込んでくる。
前世の記憶にある男の顔が、目の前の人物と重なった。長年積み重ねてきた信頼のせいか、秋子はほとんど反射的に、彼へと手を伸ばしていた。
「雅人……」——助けて。
これは七年前の雅人だ。眉目にはまだ若さの名残があるが、のちに見せることになる鋭さと落ち着きの片鱗は、すでに宿っていた。
「怖がるな。外へ連れ出す」
焦りを帯びたその聞き慣れた声には、まだ歳月に削られていない少年特有の鋭さが残っている。
彼なら、前世と同じように、迷いなく自分のもとへ駆け寄り、強く抱きしめてくれると思っていた。低く落ち着いた声で、「大丈夫、俺がいる」と——。
しかし――
雅人の視線は、彼女に触れた瞬間、ほんの一拍だけ止まり。
たった一秒。
次の瞬間、彼は一切の躊躇もなく彼女の横をすり抜け、まっすぐ美咲のもとへ向かい、その体を横抱きにした。
彼女の傍を通り過ぎるとき、視線を向けることすらなく、ただ一言だけ投げ捨てた。
「後ろについてこい!」
そう言い残すと、美咲を抱いたまま、振り返ることなく外へと駆け出した。
秋子の伸ばした手は、宙で凍りついた。
心もまた、少しずつ、冷え切っていく。
足首は、もうまともに動かない。
走れない。
雅人は、彼女をここに残したのか。——美咲の身代わりに、死ねと?