事の始まりは、入社して間もない頃の飲み会での出来事。 酔った勢いで、彼女は上司と一夜を共にしてしまった。
その後、誠司の祖父が急に倒れ、祖父に孫の顔を見せたいという願いを叶えるため、偽装結婚を持ちかけられた。
二人は婚前契約を交わし、オフィスでは秘密裏に、そしていつでも解消可能な関係を選んだ。
当時の明澄には、とんでもない幸運が舞い込んだように思えた。
八年間も片思いしていた憧れの人が、結婚相手になるなんて、夢のようだった。 彼女は二つ返事で承諾した。
結婚後、誠司はとても忙しく、一ヶ月のうち二十五日は帰宅しないことも珍しくなかった。
けれど、この二年間、彼のそばに他の女性の影はなく、浮いた噂も一切聞かなかった。
少し冷淡なところを除けば、誠司は完璧な夫に見えた。
明澄は手のひらの妊娠検査報告書を見つめ、甘い気持ちと、どこか不安な気持ちが入り混じる。
彼に伝えよう。
そして、あの日が二人の初めての出会いではなかったこと、彼女が実は十年もの間、彼を想い続けてきたことも、伝えよう。
バスルームの水音が止んだ。
誠司が出てきた途端、携帯電話が鳴った。 バスタオル一枚を腰に巻いたまま、彼はバルコニーへ出て行った。
明澄が時計を見ると、もう日付を回っていた。
こんな時間に、誰からだろう。 胸に漠然とした不安がよぎる。
電話を終えた誠司が戻ってくると、彼は何のためらいもなくバスタオルを解いた。
鍛え上げられた肉体は、くっきりと割れた腹筋、緊密な筋肉、長い脚と引き締まった臀部――全てが完璧すぎるほどにセクシーだった。
何度も裸を見せ合っていても、明澄の顔は熱くなり、胸の鼓動が早まる。
誠司はベッドサイドに近づくと、シャツとスラックスを手に取って身につけ、長い指でネクタイを結び始めた。 彫りの深い顔は気品に満ち、ただそれだけで人の目を奪う。
見惚れてしまいそうになる。
「早く休め」 彼は言った。
(出かけるの?)
明澄は少し失望し、妊娠検査報告書を握る手を無意識に後ろへ引いた。 それでも、やはり口をついて出た。 「もう、すごく遅いよ」
誠司はネクタイを結ぶ手を止め、彼女のふっくらとした耳たぶを指でつまみ、軽く引っ張りながら口元を緩めた。 「今夜は眠りたくないのか?」
明澄の小さな顔は一瞬で真っ赤に染まり、心臓が高鳴る。 何か言おうとした瞬間、男は彼女から手を離し、「いい子にして。 まだ用事があるから、待たなくていい」と、そっと頭を撫でた。
そう言うと、ドアの方へ歩き出した。
「誠司」
明澄は思わず追いかけ、彼の名を呼んだ。
誠司が振り返った。 鋭い顎のライン、そしてまっすぐにこちらを見据える視線。
「どうした?」
彼の声には、バルコニーから纏ったのか、ひんやりとした空気が溶け込んでいるようで、温度が下がったように感じた。
明澄の胸が、ふと締め付けられる。 小さな声で尋ねた。
「明日、一緒に祖母に会いに行ってくれない?調子がすごく悪くて……」
祖母に、せめて安心させてあげたかった。
「明日、またな」 誠司ははっきりとした返事もせず、そのまま去っていった。
シャワーを浴びた後も、明澄は寝返りを打つばかりで、ちっとも眠れなかった。
仕方なく起き上がり、温めたミルクを一口。
携帯を手にすると、芸能ニュースの通知が目に入った。
普段は興味がないのに、ふと目に留まった見慣れた名前につい、タップしてしまった。
#EV名デザイナー小林雪乃が帰国、謎の男性と空港に#
写っていたのは、バケットハットをかぶった小林雪乃。 同行する男性の姿はぼやけているが、背が高く、体格の良さは伝わってくる。
明澄が写真を拡大した瞬間、頭の中で「ガーン」と音がした。
そのシルエットは――間違いなく、誠司だった。
だから、午後に急遽会議をキャンセルしたのは……元恋人の小林雪乃を迎えに行くため?
途端に、胸の奥に重い石が詰め込まれたような、息苦しい感覚が押し寄せた。
震える手が、なぜか誠司の番号を押していた。
慌てて切ろうとしたその時、受話器から声が聞こえてきた。
『もしもし――』
優しすぎる、女の声。
明澄は一瞬、固まった。 次の瞬間、携帯を投げ出すようにベッドに落とした。
そして、胃が突然激しく攣るように疼き、たまらずトイレに駆け込むと、戻すように吐いた。
……
夜が明け、
明澄はいつも通りに出社した。
あの閃婚の後、誠司は彼女に家にいてほしかったが、明澄は自活したかった。
誠司はそれに同意したが、他の会社に行くことは許さず、自分のそばで、雑用係のアシスタントとして働かせた。
重要な業務はすべて、特助の洲崎牧人に任せている。
社内で明澄の正体を知るのは、洲崎だけだった。
それに加え、藤原グループの社長室はこれまで男性アシスタントしか採用していなかったため、二年間で唯一の女性である明澄の存在は、皆の好奇と噂の的となっていた。 社長と何か特別な関係があるに違いない、と。
しかし、時が経ち、社長が明澄に特別な態度を取らないことが明らかになるにつれ、その好奇は軽蔑へと変わっていった。
色で取り入っても、長くは続かない、と。
そんな時、同僚が書類を渡してきた。 「社長室までお願い」
昨夜、誠司は一晩中帰らず、彼女もほとんど眠れなかった。
頭の中をぐるぐる巡るのは、 あの電話の向こうの女は誰なのか、 二人は一晩中一緒だったのか、 という疑問ばかり。
答えはもう見えているのに、認めたくはなかった……
痛い目に遭わなければ、人は覚めないものなのかもしれない。
今の明澄の心は、妙に静かだった。 どうなろうと、この十年間の片思いに、ひとつの決着をつけたい。 ただ、それだけだ。
落ち着いてエレベーターのボタンを押し、上昇する。 降りる前に、髪を整え、深呼吸した。
社長室のドアの前まで来た時、完全に閉まっていないマホガニーの扉の隙間から、男の声が聞こえてきて、彼女の足が止まった。
「お前、本当に白川明澄のことが好きなのか?」
話しているのは、誠司の幼馴染である河合延真だ。
「何が言いたい?」誠司の声は、冷たく澄んでいた。
延真は『ちぇっ』と舌打ちした。 「白川明澄、なかなかいい女だと思うけどな。 本当にお前のタイプじゃないのか?」
「じゃあ、お前に紹介してやろうか?」男は気のない返事をした。
「やめとくよ」
ドアの向こうから、延真の軽蔑的な笑い声が聞こえてきた。 耳に刺さるように不快な音だった。
彼らは、まるで彼女をモノのように扱って話している……。
明澄は息を詰まらせ、資料を握る手に力がこもる。 手のひらは氷のように冷たくなっていた。
すぐに、延真の声が再び響いた。
「小林雪乃のニュースの相手、お前だろ!」
「ああ」
「へえ、彼女を喜ばせるためなら、何でも犠牲にするんだな」
延真は感心したように声を上げ、からかい続けた。 「昨夜は小林雪乃と一晩中一緒だったんだろ?『久しぶりは新婚に勝る』ってやつか。 へへ……」
その言葉は、まさに明澄の頭上で雷が落ちたようだった。
顔から血の気が引き、全身が凍りつくように冷たくなる。
一晩中。
久しぶりは新婚に勝る。
一つ一つの言葉が、ナイフのように彼女の心臓を突き刺す。
頭の中で無数の声が叫び、突然、眩暈と吐き気に襲われた。 視界が霞み、耳も遠くなる。
逃げ出したい――その瞬間、ドアがカチャリと音を立てて開いた。
「白川明澄?」