「離婚しよう」
伊藤翔太の短い言葉が、3年の結婚生活にあっさりと死刑宣告を下した。
彼は引き出しからファイルを1冊取り出し、無造作に机へ投げ出した。
「美咲は今、特別な事情を抱えているんだ」
彼はタバコに火をつけた。立ち上る煙が、その端正な顔立ちをぼやけさせる。「旦那を亡くしたばかりで、おまけに妊娠している。身寄りもない。 世間の冷たい目や噂話に、あいつは耐えられない」
タバコの灰がハラハラと落ちた。
「あいつと子供に、きちんとした戸籍を用意してやる。それが俺にできる最低限のことだ」
彼は佐藤結衣に視線を向けたが、その目に温もりはなかった。「条件があるなら遠慮なく言え。文句がないならサインしろ」
渡辺美咲。
彼の初恋の相手。
妊娠、忘れ形見、まともな身分。
その言葉が、結衣の頭の中でガンガンと響いていた。
彼女はぼうっと立ち尽くし、その瞳にはこらえきれない涙が浮かんだ。
指先をわずかに震わせながら、書類を手に取る。
太字で印刷された『離婚協議書』の文字が、鋭い針のように容赦なく目に刺さった。
重たい前髪が黒縁メガネにのしかかり、その姿はどこか怯えて哀れに見えた。彼女はかすれた声で尋ねた。「本当に……もう、やり直せないの?」
翔太はわずかに眉をひそめた。「あいつは体が弱い。俺がいないと死んでしまう。 でもお前は違う。お前は昔からずっと強いじゃないか」
彼女が強いから、見捨てられて当然だと言うのだろうか。
理不尽な痛みが、一瞬にして結衣の心臓を締め付けた。
彼女はふと、何年も前のことを思い出した。児童養護施設にいたあの少年のことを。
肩に陽の光を浴びながら、彼は両手を広げて彼女を背後にかばい、いじめる子供たちに向かって叫んだ。「こいつに手を出すな!」
彼はこうも言ってくれた。「俺が一生守ってやる!」
その時から、彼女はどうしようもなく彼を愛してしまったのだ。
結衣は無意識に両手を強く握りしめ、その関節は真っ白になっていた。
「結衣、あまり見苦しい真似はするな」
翔太はうつむく彼女を見て、苛立ちをにじませた声で言った。「この結婚がお互いの利益のためだったことくらい、分かってるだろう。 俺がお前を選んだのは、都合が良かったからだ――」
彼は言葉を切り、タバコの煙を吐き出した。
「お前なら、もっと物分かりがいいと思っていたんだがな」
物分かりがいい。
彼女は鼻で笑いそうになった。
彼は冷酷なほど淡々とした声で続けた。「美咲は優しいんだ。お前を傷つけたくないと言って、色々と気遣ってくれている。 俺とあいつは、一線を超えたことは一度もない」
結衣の心はズタズタに引き裂かれた。
既婚者といい感じになっておいて、それが優しいってことなのだろうか。
「慰謝料はたっぷり払う」
翔太はクリスタルの灰皿でタバコをもみ消し、さらに冷たい声で言った。「さっさとサインして、さっさとその場所を明け渡せ」
客観的に見て、結衣は地味な見た目を除けば、家事も生活のサポートも完璧だった。
だが、彼女はあまりに静かで、真面目すぎた。
まるでぬるま湯のようで、喉の渇きは潤せても、何の味もしない。
そして彼はもう、そんな水は飲みたくなかった。
彼は最後に言い放った。「考える時間を3日やる。 だが引き伸ばすな。俺もそこまで気が長くない」
「いらない」
結衣はふいに顔を上げた。
そして手を伸ばし、ペンを取る。
ペン先が紙の上を走り、サラサラと音が鳴る。
サインは早く、その文字は驚くほど流麗で迷いがなかった。
翔太は少し驚いたようだった。
だが、すぐに元の冷淡な表情に戻った。「ずいぶんと聞き分けがいいな」
彼は少し間を置いた。「お前の……過去の経歴を考えると、今後の就職は厳しいだろう。 協議書にある財産分与とは別に、俺のポケットマネーで10億円払ってやる。 今乗っているポルシェも、お前のものにしていい」
結衣は唐突に尋ねた。「ずっと彼女が好きだったのに、どうして私と結婚したの?」
彼は結衣の目を見つめ、少し間を置いた後、初めて自分から過去の出来事を口にした。
「あの時、美咲がどうしても海外に行くって言うから、俺は空港まで追いかけた。その途中で事故に遭って、両足がダメになりかけたんだ。 祖父は俺を勘当するって言い出して、女にうつつを抜かすろくでなしだと罵った。 お袋が取りなしてくれなきゃ、とっくに伊藤家を追い出されていた」
翔太の口調は淡々としていて、まるで他人の話をしているかのようだった。
「伊藤家の権力の座に返り咲くためには、結婚が必要だった。余計な問題を起こさない妻がな」
彼は彼女を見据えた。その視線は残酷なほど冷え切っていた。
「お前とは児童養護施設からの付き合いで、平凡で大人しく、俺にベタ惚れだった。 前科持ちだから扱いやすいし、将来縁を切るのも簡単だと思ったんだ」
「この3年間、お前はよくやってくれた」
彼はほんの少し口角を上げ、褒め言葉のように言った。「これがただのビジネス婚だってことを、危うく忘れそうになるくらいにな」
結衣は泣かなかった。
ただ、あまりにも馬鹿馬鹿しいと感じていた。
彼女が何年も大切に捧げてきた真心も、昼夜を問わず寄り添ってきた日々も、彼にとってはただの取引に過ぎなかったのだ。
彼は知らないだろう。
世間から認められる伊藤家の妻になるため、彼女が過去との繋がりをすべて自ら断ち切ったことを。
パソコン、メス、デザイン画、レーシングカー……
かつて彼女の目を輝かせていたものたちに、もうずっと長いこと触れていない。
来る日も来る日も彼のそばにいて、マッサージをし、リハビリを手伝った。
痛みに苦しむ夜は、ただ黙って彼の手を握りしめた。
2年前、彼の足はついに再び動くようになった。
でも、それが何だというのか。
美咲が帰ってきた途端、この3年間の献身はあっという間に色あせ、笑い話になってしまった。
ーーまあいい。
だらだらと引き伸ばされて痛めつけられるより、ここできっぱり終わらせた方がマシだ。
その時、翔太のスマホが鳴った。
電話に出た彼の顔色が急変した。『なんだと? 美咲の具合が悪いって? ……すぐ行く!』
電話を切るなり、彼は上着をつかんだ。結衣を振り返ることすらなく、足早に去っていく。
美咲が絡むと、彼はいつもこうだった。
他のものは何も目に入らなくなり、まるで世界に彼女の身の安全しか存在しないかのように焦りだす。
玄関のドアが閉まる音が、ガランとしたリビングに響き渡った。
結衣は静かにその場に立ち尽くしていた。
突然の静寂からまだ抜け出せないうちに、外から足音と笑い声が聞こえてきた。
伊藤和子と、伊藤桃花が帰ってきたのだ。
バンッ、と玄関のドアが乱暴に開かれた。
高級ブランドの紙袋をいくつもぶら下げた桃花が、ふんぞり返って入ってくる。
その後ろには、ばっちりメイクをして傲慢な顔をした和子が続いていた。
「お母さん、見てよこの新しいバッグ。限定品なんだから!」
自慢げに話していた桃花は、リビングの真ん中に立つ結衣を横目で捉え、あからさまに軽蔑の表情を浮かべた。「あら、ブスがこんなところで何突っ立ってんの目障りなんだけど」
結衣は相手にせず、荷物をまとめるために2階へ行こうと背を向けた。
「待ちきなさいよ!」桃花が突然ツカツカと歩み寄り、立ち塞がった。
彼女はゴミでも見るような目で結衣を上から下までジロジロと見た。「私のドレッサーにあったダイヤのネックレスがなくなったんだけど、あんたが盗んだんじゃないの?」