北上市の深夜、土砂降りの雨が降っていた。
榊原詩織がホテルに駆けつけた時、全身はずぶ濡れで、髪が顔に張り付いてひどい有様だった。
詩織は自分の身なりを整える余裕もなく、うつむいて胸に抱えた紙袋の中身を確かめた。
30分前、婚約者の有馬明彦からメッセージが届いた。シャツに赤ワインをこぼしてしまい、明日使うから新しいものを届けてほしいとのことだった。
突然の雨で、車を降りた時に傘すら持っていなかったが、幸い明彦の新しいシャツはコートで包んでいたため、濡れずに済んだ。
彼女は足早に上の階へ上がり、明彦の部屋を見つけた。
ドアは半開きになっていた。もうすぐ彼に会えると思うと、詩織の胸に甘い感情が広がり、そっとドアを押し開けた。
突然、長い腕が伸びてきて、彼女は部屋の中へと引きずり込まれた。
目の前が突然深い闇に包まれ、直後に焼け付くような熱い体が覆いかぶさってきた。男の大きな手が彼女の首を掴み、悲鳴を喉の奥に押し込めた。
「俺に薬を盛るとは、死にたいのか?」
怒りに満ちた冷酷な声が響き、詩織は頭が真っ白になった。
(有馬明彦の声じゃない!)
(彼は誰? どうして明彦の部屋にいるの!?)
底知れぬ恐怖が詩織を飲み込んだ。彼女は必死に男の手首を握りしめ、歯を食いしばって言葉を絞り出した。「あなたのことなんて知らない。私は婚約者を捜しに来たの……」
「ふん、まだ嘘をつく気か!」
男は耐えきれない様子でうつむき、彼女の唇を噛んだ。罰を与えるかのように力を込めると、かすかに血の味が広がる。それが女の唇の甘さと混ざり合い、男の心の底にある欲望を煽り立てた。
首を絞めていた手がゆっくりと緩む。男は彼女を抱き上げてベッドに放り投げ、その上に覆いかぶさった。
「いや……」
詩織の悲鳴はすべて男に飲み込まれた。冷たく濡れた服が脱がされ、彼女はまるで燃え盛る炎の中に落ちたかのように、この氷のような雨の夜に無理やり一緒に燃やされていった……
3時間後、激しい雨がようやく上がった。
男が詩織の上から退いた。露出した上半身には生々しい赤い引っかき傷が無数にあり、先ほどの激しい行為を物語っていた。
詩織は布団にうずくまり、顔には事後の赤みがさしていた。華奢な体が小刻みに震えている。
暗闇の中で、男の嘲笑するような声が聞こえた。「俺がお前の初めての男ってわけじゃないだろ? いつまで純情ぶるつもりだ?」
彼は詩織の顔を見るのすら嫌悪しているようで、そのままバスルームへ入りシャワーを浴び始めた。
ざあざあと水音が響く。詩織のうつろな目に再び焦点が合い、ドアに穴を開けんばかりの勢いでバスルームの方向を睨みつけた。
彼女は気だるい体を必死に起こし、手探りで部屋の電気をつけると、床に落ちていたスマホを拾い上げた。
画面のロックを解除すると、無数の不在着信とメッセージの通知が飛び出してきた。
その内容を見た瞬間、詩織の顔色が悪くなった。彼女は急いで服を着ると、振り返りもせずに部屋を飛び出した。
しばらくして、バスローブを羽織った長谷川彰人が、長い脚でバスルームから出てきた。欲求を満たした男の目元は気だるげで、全身から清々しさが漂っていた。
突然、彼は足を止め、明るくなった誰もいない部屋を見回して、危険な光を宿した目を細めた。
彼は足早に歩み寄り、布団をめくった。大きなベッドにはやはり人影はなく、ただ赤い血の跡だけが残されていた。
男はわずかに呆然とした。
(あの女、初めてだったのか? 冗談だろ?)
彼はスマホを取り出し、電話をかけた。冷ややかな声で命じた。『今夜俺をハメた女がさっき逃げた。すぐに捕まえて連れ戻せ。俺が直接処理する』
部下は訳が分からない様子で答えた。『その女なら1時間前に我々が捕らえましたが。今すぐそちらへ連れて行きましょうか?』
彰人は太い眉をひそめた。『1時間前だと?』
『はい。弟君が娼婦を買収し、あなたの部屋に送り込んで無理やり襲われたと偽装させ、名声に傷をつけようとしていたことが判明しました。 ですが、その娼婦はホテルに入る前に我々が捕らえまして……』
部下は説明を終えると、恐る恐る尋ねた。『おっしゃっている女とは、誰のことですか?』
彰人は一時沈黙した。
自分の言った女とは誰なのか?
彼自身にも分からなかった。
彼は再びシーツの痕跡に目をやった。その赤色が突然、ひどくまぶしく感じられた。
男の呼吸が急に荒くなり、喉が詰まるような感覚を覚えた。
(まさか、本当に人違いだったのか?)
病院。
詩織はタクシーを降りると、まっすぐ上の階にある医師のオフィスへ向かった。ドアを開けるなり尋ねた。
「先生、メッセージに書いてあったことは本当ですか?母のドナーが気が変わったって?」
医師は深くため息をつき、頷いて答えた。「ええ。何度も説得したのですが、相手は体調不良を理由に提供できないの一点張りでして」
詩織は目の前が真っ暗になった。
彼女の母である清原和音は白血病を患っていた。数ヶ月前に適合する骨髄が見つかり、相手も快く提供を引き受けてくれて、詩織はずっとそのことを喜んでいた。
移植手術は今日の昼間に予定されていた。和音はすでに骨髄破壊の処置を終えており、体内の造血システムは完全に破壊されている。このタイミングでドナーが辞退するなど、和音の命を奪うも同然だった。
彼女の声は震えていた。「ドナーの方と直接お話ししたいです」
医師は困ったような顔で答えた。「規則で、ドナーと患者側の接触は禁止されているんです」
(じゃあ、可哀想な母はどうなるの?)
まさか、が死んでいくのをただ見ていることしかできないというの!
詩織は声を上げて叫びたかったが、医師を困らせても仕方がないことはよく分かっていた。
オフィスを出ると、彼女はすぐに明彦に電話をかけた。
有馬家は北上市で絶大な権力を持っている。万が一、明彦が急いで新しいドナーを見つけてくれるかもしれない。ほんの少しの可能性でも……
電話は鳴ったが、すぐに切られた。
詩織は諦めきれず、もう1度かけ直した。
静かな廊下に、突然聞き覚えのある着信音が響いた。
詩織はハッとして、すぐ近くにある半開きの病室のドアを見た。
(明彦も病院にいる?)
(じゃあ、どうして私をホテルに呼んだの?)
無数の疑問が詩織の心に積み重なった。彼女は急いで歩み寄り、ドアを押し開けようとした。その狭い隙間から見えた室内の光景が、残酷なほどはっきりと彼女の目に突き刺さった。
ドクン――
詩織はその場に呆然と立ち尽くした。