写真の男は冷たい表情を浮かべ、唇を固く結び、その眼差しには背筋が凍るような冷酷さが宿っていた。
右側は九条湊。
彼は九条家の次男で、穏やかで上品な雰囲気を持つ。しかし、幼い頃から病弱で、長年車椅子での生活を余儀なくされていた。
写真の男は微笑みを浮かべ、その眼差しは弥生の春の水のように優しかった。
「綾乃、あなたが先に選びなさい」
目の前の二通の資料を見つめる。
綾乃の心には、ただ皮肉な感情だけが込み上げてきた。
前世でも、状況はまったく同じだった。母は先に、自分に選ばせたのだ。
知意は、父と愛人の間に生まれた娘だ。
長年、彼女はこの家でシンデレラのような扱いを受けてきた。
父は母に負い目を感じていることもあり、また知意自身が我慢強い態度を崩さなかったため、何かにつけて良い話は、甘やかされて育った綾乃のほうに優先的に回ってきたのだ。
結婚相手を選ぶという重大なことでさえ、自分が先に決めることになっていた。
母は、自分が慎と結婚し、この街で最も権力のある男の妻になることを望んでいた。
しかし前世の自分は、生まれつき体が不自由な湊を頑なに選んだのだ。
前世の彼女は長きにわたり、彼のリハビリに寄り添い、名医を求めて奔走した。
瀬戸家から与えられた持参金のほとんどを使い果たし、真冬の雪のなか、薬を求めて土下座までした。
瀬戸家の愛娘である自分が、湊のために、自らの尊厳を完全に捨て去ったのだ。
その後、湊の足は奇跡的に完治した。
当時、江ノ島市中の人々が二人を羨み、理想の夫婦だと称賛した。
綾乃自身も、それを深く信じて疑わなかった。
湊は当時、彼女の手を握り、約束した。「綾乃、君を絶対に裏切らない」
そして、彼女は信じた。
その後、九条家は経営危機に陥り、資金繰りが破綻し、破産寸前となった。
湊は車椅子に座り、青ざめた顔で彼女に言った。「綾乃、今、九条家を救えるのは西園寺慎だけ」
湊のために、彼女はすべての自尊心を捨て、いつも見下していた知意の前にひざまずき、慎に口添えしてくれるよう懇願した。
しかしその後、彼女と知意は一緒に慎の敵に誘拐された。
誘拐犯は彼女の頭に銃を突きつけ、二人のうちどちらが慎の妻なのかと問い詰めた。
命が惜しかった知意は、一歩先に口を開き、綾乃が慎の妻だと嘘をついた。
足が完治した湊が現場に駆けつけたとき、綾乃は安堵のため息をついた。
彼は必ず自分の身分を明らかにしてくれると信じていた。
胸を躍らせ、期待に瞳を輝かせて、彼女は湊の名を叫んだ。
しかし、彼女が聞いたのは、湊が誘拐犯に言った言葉だった。「彼女は慎の妻じゃない。隣の女だ」
湊が指差した「隣の女」とは知意のことだった。
湊が知意を助けに駆け寄る際、彼は罪悪感に満ちた口調で綾乃に囁いた。「綾乃、ごめんね。あなたはすべてを持っている。でも、知意には……僕しかいないんだ」
たった一言の「ごめんね」が、
彼女のすべての献身を、その一言で葬り去った。
死の瞬間まで、綾乃はついに理解した。
知意こそが、湊が心の底から深く愛していた人だったのだ。
「絶対に裏切らない」という誓い?
綾乃の人生は、最初から最後まで、とんでもない茶番だったのだ。
「綾乃?」
母の声が、彼女を苦痛な記憶から引き戻した。 「どちらにするか、決めたの?」
綾乃は顔を上げた。
知意が彼女を見つめ、怯えた口調で言った。 「お姉ちゃんが先に選んで。 私は急がないから」
前世でも、知意はそう言った。
そこで綾乃は湊を選び、知意は当然のように慎を選んだ。
後に綾乃は、知意が最初から慎を狙っていたことを知った。
彼女は事前に綾乃の前で慎の悪口を散々言い、 それから綾乃に先に選ばせるふりをして、 正々堂々と自分の望む男を手に入れたのだ。
綾乃は知意の哀れっぽい顔を見つめ、心の中で冷笑した。
前世の記憶がなければ、知意が純粋で無害な少女だと本当に信じてしまったかもしれない。
彼女は手を伸ばし、左側の慎の資料に手を置いた。
「彼を選ぶわ」
リビングは一瞬にして静まり返った。
知意の笑顔も凍りついた。
母も呆然とし、尋ねた。「綾乃?本気なの?」
昨夜、母娘で語り合ったとき、綾乃は泣きわめいて湊と結婚すると言い張っていたはずだ。
どうして今日になって突然、慎を選んだのだろうか?
「本気よ」
綾乃は落ち着いた口調で再び確認した。「慎を選ぶわ」
知意の顔は驚きに引きつり、無理やり笑顔を作って尋ねた。「お姉ちゃん、どうして急に気が変わったの? この前は九条家の次男はとても良い人だって言ってたじゃない……」
「前は前よ」
綾乃は冷たく知意の言葉を遮った。「湊はあんなに体が弱い。病人のお世話をするために嫁ぐなんて、まっぴらごめんよ」
「でもお姉ちゃん、これは一生の幸せに関わる結婚の大事よ。衝動的に決めないで」
「衝動的じゃないわ」
綾乃は立ち上がり、知意を見下ろして言った。「知意は人のお世話をするのが好きだったでしょう? 湊は体が弱くて、お世話が必要だわ。あなたにぴったりよ」
知意の顔色は瞬時に青ざめた。「お姉ちゃん、あなた……」
「どうしたの?」
綾乃は眉を上げた。「嫌なの? それとも、本当は彼のお世話なんてしたくなくて、私に彼を選ばせて、自分は当然のように別の選択肢を手に入れたかっただけ?」
あまりにも直接的な言葉に、知意の顔から血の気が引いた。
「そんなこと……」
知意の目はすぐに赤くなり、ひどく傷ついたように見えた。 「お姉ちゃん、どうしてそんな風に私を思うの?私はただ、お姉ちゃんのことを心配して……」
「もういいわ」
母が苛立たしげに彼女の言葉を遮った。「綾乃が決めたのなら、それで決まりよ。知意、あなたの相手は湊よ」
「でも……」
綾乃は眉を上げ、問い返した。 「でも何?湊はとても良い人じゃない。知意は喜ぶべきよ」
知意の体はこわばった。
湊が良い人?
江ノ島市中で、彼が体の不自由な人間だと知らない者がいるだろうか?
彼は九条家で顧みられず、体も弱く、いつ倒れてもおかしくない。
彼と結婚すれば、そう遠くない未来に未亡人になるかもしれない。
それに比べて、慎は江ノ島市で最も権力のある人物であり、その影響力は絶大で、ほとんど何でも思いのままだ。
綾乃は以前、あんなに湊が好きだったのに、どうして突然気が変わって慎を選んだのだろうか?
しかし、こうなってしまっては、もう変えられない。
知意は唇を噛みしめた。
(大丈夫。
最も権力のある慎と結婚できなかったとしても、少なくとも湊は私のことが好きなんだから)
(一歩譲って、湊と結婚しさえすれば、私は九条家の次男の夫人だ。将来の生活は、慎と結婚した綾乃よりもきっと良いものになる!)
(結局のところ、慎は江ノ島市で最も権力のある人物だが、 慎は江ノ島市で最も権力のある人物だが、その性格も最悪だ)
(業界では、あの男は血に塗れた手を持つ、笑顔で人を絶望の淵に追いやる危険人物だという噂だ)
(もし彼が誰かを始末しようとすれば、その人物は自分がどうやって死んだのかさえ分からないだろう)
綾乃は知意の表情を見て、彼女が何を企んでいるのかをはっきりと理解した。
彼女は心の中で冷笑した。
知意は湊と結婚すれば良い生活が送れるとでも思っているのだろうか?
本当に甘い。
湊と結婚することは、彼女の人生をより深い絶望に陥れるだけだ!