「タオル、必要ですか」
静寂を破ったのは、鷹司栞栄(たかし しおり)自身の声だった。その声は、厚いウールの絨毯に吸い込まれて、ほとんど響かなかった。
彼女は寝室のキングサイズベッドの端に腰掛け、手の中にある小さなベルベットの箱を握りしめている。結婚五周年の記念に、夫である松橋将人(まつはし まさと)のために用意したカフリンクスだ。
視線の先には、固く閉ざされた浴室のドアがある。すりガラスの向こう側で、シャワーの水音が絶え間なく響いていた。
しかし、その規則的な水音に、何か不規則な音が混じっていることに、栞栄は気づいていた。
微かな、荒い息遣い。
彼女は眉をひそめ、ゆっくりと立ち上がった。その瞬間、右の足首に鈍い痛みが走る。五年前の交通事故が残した、一生消えない後遺症だ。
痛みを無視して、一歩、また一歩と、浴室のドアへ向かう。
冷たい真鍮のドアノブに指が触れた瞬間、中の声がより鮮明になった。
将人の、低く掠れた声。
栞栄は息を止めた。全身の血が逆流するような感覚に襲われ、ドアパネルに耳をそっと押し当てる。
そして、はっきりと聞こえた。
「……香澄」
将人が呼んだのは、妻の名前ではなかった。彼の初恋の相手、長野香澄(ながの かすみ)の名前だった。
栞栄の心臓が見えない手に鷲掴みにされ、強く握り潰された。呼吸が止まる。
彼女は反射的に半歩後ずさり、信じられないという表情で磨りガラスのドアを凝視した。
ガラス越しに、シャワーを浴びているはずの将人の大きなシルエットが映っている。その影が、ある一定のリズムで、規則的に上下しているのが見えた。
胃の奥から、熱いものがせり上がってくる。強烈な吐き気が喉元まで込み上げ、栞栄は両手で必死に口を塞いだ。
その瞬間、指の力が抜け、手の中にあったプレゼントの箱が滑り落ちた。
ことり、と鈍い音がして、分厚い絨毯の上に落ちる。
浴室の影の動きが、ピタリと止まった。
水音だけが、気まずい沈黙の中に響き続ける。
やがて、将人の冷たい声がドア越しに響いた。
「そこに誰かいるのか?」
嗚咽が漏れそうになるのを、栞栄は歯を食いしばって堪えた。声を出せば、すべてが終わる。
彼女は何も答えず、音を立てないように後ずさる。不自由な足を引きずりながら、逃げるように寝室を後にした。
長い廊下を抜け、広大なリビングまでたどり着くと、まるで糸が切れた人形のように、冷たい革張りのソファに崩れ落ちた。
「はっ、はっ……」
荒い息を繰り返しながら、脳内で先ほどの名前が何度も反響する。
長野香澄。
将人の大学時代の初恋の相手。NPO法人でボランティア活動をしている、誰もが認める清純で、永遠に弱く、無害な女性。
栞栄は顔を上げ、壁に飾られた大きな結婚写真を見つめた。純白のウェディングドレスを着た自分の隣で、将人はほとんど表情を変えずに立っている。
この五年間、彼が自分に触れるのは、義務のように月に数回だけだった。それでも、彼が紳士的で、ただ性格が冷淡なだけなのだと、自分に言い聞かせてきた。
だが、違ったのだ。
彼は、彼の情熱や欲望のすべてを、幻想の中にいる別の女性に向けていたのだ。この結婚生活そのものが、壮大な一人芝居だった。
物音に気づいたのか、家政婦の中村恵子(なかむら けいこ)が使用人用の部屋から顔を出した。
「奥様?どうかされましたか?」
顔面蒼白の栞栄を見て、恵子は心配そうに駆け寄ってくる。
「お医者様を呼びましょうか?」
「……大丈夫」
栞栄は喉から絞り出すように言った。泣き出しそうな顔を無理やり笑顔に変え、首を横に振る。
「少し、疲れただけ。もう休んでちょうだい」
恵子を下がらせた後、栞栄は一人、大きな窓の前に立った。眼下には、宝石を散りばめたような東京の夜景が広がっている。
窓ガラスに映る自分の顔は、ひどく疲れ切っていた。しかし、その瞳の奥には、今までなかったはずの、硬質な光が宿っていた。
彼女はポケットからスマートフォンを取り出した。指紋認証でロックを解除し、いくつものフォルダを通り過ぎ、一番奥に隠された「重要」という名前のフォルダを開く。
そこには、一通だけメールが保存されていた。
ロンドンの美術大学からの、修士課程への合格通知と、入学オファーのメールだった。