「高橋健太さん。あなたは、ここにいる中村静さんを妻とし、健やかなるときも、病めるときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、固く節操を守ることを誓いますか」
神父の厳かな声が、純白のチャペルに響き渡る。
すべての視線が、フラッシュの光が、祭壇の上の男に注がれる。
高橋健太は、答えなかった。
その口元には、嘲るような笑みが微かに浮かんでいる。
会場の空気が、じりじりと焦げ付いていくのを感じる。
静の心臓が、氷水に浸されたかのように一度だけ強く収縮した。
胃の奥が冷たくなる。
だが、その顔は完璧な無表情を保っていた。
(ああ、同じだ)
前世と、寸分違わぬ光景。
長い沈黙の後、健太はようやく口を開いた。
彼の声はマイクを通して、残酷なほどクリアに会場の隅々まで届いた。
「申し訳ありません。誓えません」
一瞬の静寂の後、ゲスト席から潮が引くような騒めきが起こった。
ひそひそと交わされる言葉が、波のように静の耳を打つ。
父である中村昭雄の顔が怒りで土気色に変わるのが見えた。
母の佳代子はハンカチで口元を覆い、その目は信じられないという色に染まっている。
義理の妹である中村詩織の瞳には、一瞬、抑えきれない喜色が閃いたが、すぐに心配そうな表情に変わり、彼女は静のウェディングドレスの裾をそっと掴んだ。
健太は、誰の反応も意に介さない。
彼の視線は静を通り越し、ゲスト席の後方に座る、か弱い雰囲気の女に向けられていた。
渡辺玲奈。
健太は、マイクを通して愛を叫んだ。
「俺は、玲奈を忘れることができない。愛のない君と結婚することは、俺たち三人に対する冒涜だ」
スポットライトが、まるで筋書きがあったかのように渡辺玲奈を照らし出す。
彼女は今にも泣き出しそうな、庇護欲をそそる表情を浮かべていた。
静の視線が玲奈を捉える。
心は凪いでいた。
ただ、氷のような憎しみだけがそこにあった。
前世で、この女が詩織と結託し、自分を地獄に突き落としたことを、静は決して忘れない。
健太が、静に向き直る。
見下すような視線。
「静。君なら分かるはずだ。俺たちの間にあるのは家の利益だけ。玲奈こそが、俺の真実の愛なんだ」
彼は胸に挿していたブートニアを引き抜き、ゴミでも捨てるかのように、無造作に床へ投げ捨てた。
静の兄たち、幸助、正道、雄大の顔には、汚物を見るかのような嫌悪が浮かんでいた。
まるで、静が中村家の恥そのものであるかのように。
長兄の幸助が、低い声で静をなじる。
「静、お前、一体何をしたら彼にこんな真似をさせるんだ!一族の顔に泥を塗りやがって!」
母の佳代子が駆け寄ってきた。
慰めるためではない。
静の腕を強く掴み、爪が肉に食い込むほどの力で言った。
「早く!早く健太さんに謝って、許しを請いなさい!」
詩織が偽善的な優しさで割って入る。
「お母様、やめてあげて。お姉様も、もう十分辛いんだから」
そして、静にしか聞こえない声で囁いた。
「お姉様。可哀想。まるで捨てられたお人形さんみたい」
静の心の中で、声が響いた。
(今だ。ここから、すべてを変える)
彼女は母の手を振り払った。
その動きは決然としていて、佳代子はたたらを踏んだ。
静は健太を見据える。
彼の予想した涙も、取り乱す姿もそこにはなかった。
代わりに、彼女の唇には、凍てつくような微笑が浮かんでいた。
その笑みに、健太は一瞬、虚を突かれた。
彼の望んだ反応ではない。
泣き叫び、彼にすがるはずだった。
静は、司会者用のマイクを手に取った。
凛とした冷たい声が響く。
「高橋健太様。本日は、ご実直な告白をありがとうございます」
彼女は一度言葉を切り、会場全体を見渡した。
その視線は、ゲスト席の最前列に座る、二人の圧倒的な存在感を放つ男たちの上で止まった。
高橋家の先代当主、高橋龍之介。
そして、その隣に座る、彼をも凌ぐ威圧感を放つ男。
高橋健太の叔父である、鷹司グループの当主、鷹司暁。
(前世で、私が最も絶望した時、手を差し伸べてくれたのは、この人だけだった)
静は続けた。
「おっしゃる通りです。愛のない結婚は、お互いへの侮辱に他なりません」
彼女は、ゆっくりとした、優雅な仕草で自らのベールを外した。
純白の布が、雪のようにふわりと床に舞い落ちる。
健太が眉をひそめ、苛立ちを隠さずに言った。
「静。みっともない真似はやめろ。これ以上、恥をかくだけだ」
父の昭雄が、全身をわなわなと震わせながら怒鳴る。
「誰か、あの娘を連れ戻せ!この恥知らずが!」
静は、すべての声を無視した。
ただ、静かに健太を見つめて言った。
「ですので、ただ今をもちまして、あなたとの婚約を破棄させていただきます」
彼女はマイクをそっと置いた。
ゴトン、という鈍い音が、まるで判決を告げる槌の音のように響いた。
鷹司暁がいる方向へと向かっていった。