「少し痛むかもしれない、我慢しろ」
冷たく、鋭い男の声が耳元で響いた。
栞は我に返り、困ったように眉をひそめた。「女の先生に、代わっていただけませんか」
目の前の男は、背が高く、すらりと伸びた立ち姿で、マスク越しにも顎のラインが鋭く浮き出ていた。有無を言わせぬ威圧感が、全身から滲んでいる。
医者というものは、もっと穏やかなものだと思っていた。こんなにも冷たく、張り詰めた空気をまとう医者を、彼女は知らなかった。
男は俯いたまま、手早く器具を揃えながら言った。「今日は女の先生はみんな手が離せない、代えるなら、日を改めてもらうことになる」
栞はしばらく黙っていたが、結局、台のそばまで歩いていった。
……まあいい。男の先生でも。このまま放っておいたら、いつか取り返しがつかなくなる。
観念して、栞は台に横たわった。
「力を抜いて」
男の声が、さらに近づいた。
台に横たわったまま、栞はぎゅっと目を閉じた。
医者なのだから、余計なことを考えるのはやめようと、自分に言い聞かせた。
不意に、ひやりとした器具が肌に触れた。
その冷たさに、栞は思わず身をすくめ、小さく声を漏らした。
これが、彼女の病だった。体の一部が、わずかな刺激にも過敏に反応してしまう。
空気が、一瞬、張りつめた。
清征は手を止め、低く落ち着いた声で尋ねた。「……大丈夫か」
栞は火照った顔を背けた。心臓が早鐘みたいに暴れている。「……だ、大丈夫です」
「緊張しなくていい」
そう言いながら、手の動きは知らず知らずのうちに、柔らかくなっていた。
診察室が静かすぎて、栞は自分の鼓動まで聞こえてしまいそうだった。
ふと、耳元で、男の低くて落ち着いた声がした。「だいぶ過敏になっているようだな。これも症状のひとつか」
栞の顔が、一瞬で、耳の先まで真っ赤に染まった。
指をきゅっと丸めて、何か言おうとした…その前に、男がまた口を開いた。「今のところは、異常なしだ」
清征は無表情のまま検体の採取を始めながら、口を開いた。「何か、自覚している不調はあるか? 普段の生活で困っていることは?」
カルテには、既婚と書いてあったはずだ。
原因を探るためにも、確認しておくべきことがあった。
栞の頬が、かっと熱を帯びる。
一拍、ためらってから、彼女はやっとの思いで唇を開いた。「……私、夫と、その……そういう関係が、一度もなくて」
時間が経つにつれて、病状はどんどん重くなり、日常生活にも、はっきりと支障が出るようになった。
だから、勇気をふりしぼって、この私立病院を受診したのだ。
「……ないのか」
清征は少し意外そうに顔を上げ、栞を見た。
精巧に整った、美しい顔立ちの女だった。どことなく色っぽくて、それでいて、あどけない。一目見たら、忘れられない顔だった。
「はい。なのに、自分でも怖いほど……体が、勝手に反応してしまうんです。動悸や、ほてりが止まらなくて」
「普段の生活でも、若い男性と少し触れ合っただけでも、同じような症状が出てしまって……」
もうここまで話してしまったのだから……栞は赤い顔のまま、思いきって悩みを打ち明けた。
清征は一瞬言葉を失ったが、すぐに医者としての顔を取り戻した。
彼は顔をそらし、採取した検体を片づけた。
なにも言わない彼に、栞は不安になって目を開け、彼の方を見た。
彼は斜めを向いて、優雅なしぐさで手袋を外していた。節のくっきりした、長い指があらわになる。
この人…指まで、きれいなんだ。
ぼんやりしているうちに、男はもう歩み寄ってきていて、優しい手つきで彼女の身体を支え起こした。
足が床に着いた…そのとたんに、栞は膝から力が抜けて、そのまま、男の胸のなかに倒れ込んだ。
シダーの清々しい香りを漂わせる、彼の…男のにおいが、一瞬で、鼻腔いっぱいに広がった。
どぎまぎして、栞はあわてて身を離した。