集中治療室のアラームが、廊下に冷たく響き渡っている。
吉村沙織はベッドの脇にひざまずき、母の手を強く握りしめた。「お母さん、もう少しだけ頑張って。今すぐ伊藤院長を呼んで助けてもらうから」
5年前、母は沙織をかばって小型トラックにはねられ、深い昏睡状態に陥った。
それ以来、莫大な医療費をつぎ込むことで、どうにか命をつなぎ止めてきたのだ。
主治医である伊藤院長は、母の容態が急変した時に備え、沙織が貯金をすべてはたき、あらゆるツテを頼ってようやく迎え入れた名医だ。
それなのに、わずか10分前に病院へ駆けつけた沙織が知ったのは、夫の近藤修平によって伊藤院長が別の場所へ異動させられていたことを知ったのだ
彼女は震えている指先で修平の番号にかけた。何度もコールを重ね、ようやく電話が繋がった。
「修平、お母さんがもう限界なの。お願いだから、伊藤院長にすぐ手術へ来るよう言ってくれない? お願い」
修平の声には、隠しきれない苛立ちが滲んでいる。「真理子が足を捻挫して、いま伊藤院長に診てもらっているんだ。お前の母親なんか、少しぐらい待たせたところで死にはしないだろう」
スマホの向こうから、甘えるような女の声が聞こえてきた。「足がすごく痛いの……修平、早く来て、私のそばにいて……」
吉村沙織の爪が手のひらに深く食い込み、じわりと血が滲んだ。
「この病院でその手術ができるのは、伊藤院長だけなの! これ以上遅れたら手遅れになるわ!」
「5年も寝たきりだった人間が、なぜよりによって今さら急変するんだ?」 修平の声は氷のように冷え切っている。「これ以上俺を煩わせるな。さもないと、今月の入院費は自分で工面してもらうことになるぞ」
沙織が言い返す間もなく、通話は一方的に打ち切られた。
すぐにかけ直したが、すでに電源が切られている。
沙織はベッドの傍らに崩れ落ちるように膝をつき、母の手の甲に額を押し当てた。涙を白いシーツに絶え間なくこぼした。
「お母さん……ごめんなさい……」
その時、モニターから耳をつんざくような警告音が鳴り響いた。
心電図の波形が、無情にも一本の直線に変わった。
医師たちが病室に駆け込み、除細動器を当て、アドレナリンを投与する……考えられる限りの救命処置が尽くされた。
だが最後には、医師はパドルを置き、静かに首を横に振った。
「もし伊藤院長がいてくれたら、まだ助かる見込みがあったかもしれないのに…… ですが今は……ご葬儀の準備をしてください」
沙織は母の亡骸にすがりつき、腕の中でそのぬくもりが少しずつ失われていくのを感じた。
世界で一番大切な家族が、もういなくなってしまった。
それなのに、夫は他の女の捻挫に付き添い、その手で母の生きる望みを完全に断ち切ったのだ。
沙織は声が出なくなるまで泣き叫び、涙が枯れ果てるまで咽び泣いた。最後には、込み上げる嗚咽で空吐きを繰り返すばかりだ。
やがて看護師が手続きを促しに来た。遺体を火葬場に送らなければならない。
死亡診断書を手に病棟を出た沙織は、まるで魂を抜かれた操り人形のようだ。
ふいに、目の前に人影が立ちはだかった。
大塚真理子だった。10センチ以上もあるハイヒールを履きこなし、隙のないメイクを施した顔で、真っ赤な唇を歪めて笑みを浮かべている。
「私、修平には何度も言ったのよ。足は大したことないって。でも彼、どうしても一番いい先生に診てもらえってきかなくて」 真理子はわざとらしく片足を前に出し、ひらひらと揺らしてみせた。「あの人ったら、本当に私にばかり甘いのよね」
沙織はそのハイヒールを睨みつけ、血が滲むほど唇を強く噛みしめた。
「あなたの足、何ともないじゃない!」
「ええ、もちろんよ」 真理子は一歩歩み寄ると、声を潜めて囁いた。「伊藤院長にあなたのお母さんを優先してあげてって、 修平に言ったの。そしたら彼、何て言ったと思う?『あいつのお袋の命なんて、真理子の足に比べたらどうでもいい』って」
沙織の全身の血が、一瞬にして凍りついた。
彼女は手を振り上げ、真理子の頬を力任せに平手打ちした。さらにもう一発浴びせようとしたその時、手の甲に真理子の鋭い爪が深く食い込んだ。
「きゃっ!」真理子が突然悲鳴を上げ、後ろに倒れ込んだ。
そこへ伸びてきたすらりとした長い腕が、彼女の体をしっかりと受け止めた。
修平は真理子を抱き寄せたら、切れ長の黒い瞳で沙織を冷ややかに射抜いた。「なぜ彼女を突き飛ばした?」
「私はやってないわ!」
真理子はすかさず修平の胸に身を預け、か細い声で訴えた。「修平、沙織さんを責めないであげて。きっと今、少し気が立っているだけなのよ」
修平の切れ長の瞳に、険しい怒りの色が浮かんだ。「沙織、いい加減にしろ。そんなに心が狭くてどうする。お前の母親には伊藤院長を手配して全身の検査を受けさせてやる、それで満足だろう」
沙織は笑った。
笑いすぎて、涙まで出てきた。
「検査? もう死んだ人間に、何の検査をするっていうの?」
修平の表情が凍りついた。「……今、何と言った?」
「母は死んだのよ」 沙織は一言ずつ、噛みしめるように告げた。「あなたがその女の足の治療に付き添っている間にね。 あなたが伊藤院長を連れ出したせいで、病院中にあの手術ができる医師がいなくなって、母は死んだの」
彼女は、目の前に立つ男を見つめた。5年間、愛し続けてきた男を。
この5年間、彼のために料理を覚え、彼の帰りを待って夜を明かし、冷酷な無視にも耐え続けてきた。
胃が弱い彼のために、午前3時に起きてお粥を作った。
不眠に悩む彼の傍らで、一晩中寄り添い続けた。
彼は機嫌が良ければ優しい言葉を二つ三つかけ、機嫌が悪ければ彼女を空気のように扱った。
そして真理子から電話が一本入れば、いつでも彼女を置き去りにして駆けつけていく。
そのすべてに、もううんざりだ!
「近藤修平」 沙織は涙を拭い去り、恐ろしいほど静かな声で言った。「私たち、離婚しましょう」