シャンゼリゼ・グランドホテル。
早川寧寧は医療学術会議を終え、ホテルを出た。 その瞬間、吹きつける寒風が肌を刺すように冷たかった。
彼女はスマートフォンを取り出し、夫の川村真佑にメッセージを送ろうとした。
その時、あるニュースの見出しが突然彼女の目に飛び込んできた。
『川村グループ、新型分子標的薬の開発に成功。 シャンゼリゼ・グランドホテルで祝賀パーティー開催』
寧寧は一瞬、自分の目がおかしくなったのかと疑った。
この分子標的薬は、彼女が夫の真佑の会社のために開発したものだ。 なぜ祝賀パーティーが開催されるのに、彼女には何の連絡もなかったのだろうか?
寧寧は少し躊躇した後、踵を返してホテルに戻った。 三号宴会場の案内板には、「川村グループ祝賀パーティー」と明確に書かれている。
宴会場の入口にたどり着いた瞬間、彼女の目に飛び込んできたのは、あまりにも眩しい光景だった。 真佑と荒木雪乃が親密そうに並び立ち、まるで理想的なカップルのように見えた。
雪乃は彼女と同じ病院の同僚であり、真佑の幼馴染でもある。
だが、今の二人の距離は、もはや単なる友人という範疇をはるかに超えていた。
真佑は、骨ばった手で荒木雪乃の腰をしっかりと抱き寄せ、彼女を見つめるその瞳には、深い愛情が満ち溢れていた。
真佑……
彼は、一度たりとも自分にそんな眼差しを向けたことはなかった。
言いようのない屈辱感が、瞬く間に寧寧の全身を覆った。
その時、真佑の友人たちのからかうような声が、寧寧の耳に届いた。
「真佑、お前と荒木先生は本当にお似合いだな。 いつ結婚するつもりなんだ?」
「そうだぞ、真佑。 荒木先生は綺麗で有能だし、お前が家に隠してる、人前に一度も連れてこない奥さんよりずっといい。 さっさと離婚した方がいいんじゃないか!」
別の友人が不思議そうに尋ねた。 「でも、川村グループの分子標的薬って、真佑の奥さんが開発したんじゃなかったか?薬を開発できる奥さんは、真佑にとっても必要なんじゃないか!」
その言葉は、無数の針のように寧寧の心を突き刺し、骨の髄まで痛みが染み渡った。
それでも、寧寧は一縷の望みを抱いて川村真佑を見つめた。 きっと、彼は自分の妻がこのように侮辱されるのを黙って見過ごしたりはしないだろうと。
しかし、真佑は鼻で笑い、荒木雪乃をさらに強く抱き寄せた。
「早川寧寧に何ができる? この分子標的薬は、完全に雪乃が開発したものだ。 雪乃こそが、俺たち川村グループ最大の功労者なんだ!」
寧寧の頭は、轟音と共に真っ白になった。
真佑……彼は一体何を言っているのだろうか?
自分が無数の昼夜を費やして苦労して開発した成果を、彼はこうもあっさりと別の女の手柄にしてしまうというのか?
寧寧はもう自分を抑えきれず、目頭が熱くなり、涙が溢れ出した。
これほど長年、真佑を愛し、川村グループのために尽くしてきた。
今となっては、自分がとんだ道化師だったとしか思えない。
寧寧は、この結婚において、自分が完膚なきまでに敗北したことを悟った。
心臓が鈍く痛み、息をするのも苦しい。
こんな惨めな姿を誰にも見られたくなくて、彼女はホテルの化粧室へと向かった。
寧寧がどうにか気持ちを落ち着けて化粧室から出ると、わがままそうな女の声が聞こえてきた。
「真佑、いつになったら早川寧寧を追い出すの?私こそがあなたと婚姻届を交わした正妻なのに、あの女が川村夫人という名前を何年も名乗っているなんて」
寧寧が物陰から覗き見ると、話していたのは雪乃と真佑だった。
彼女の心は、ずしりと重く沈んだ。
どういうこと?雪乃こそが、真佑と婚姻届を交わした相手だというのか?
真佑は雪乃をなだめるようにキスをし、その手は彼女の腰を這っていた。
「雪乃、もう少し我慢してくれ」
「早川寧寧が開発した第一期の分子標的薬だけで、会社は200億円も稼いだ。 彼女が第二期、第三期を開発すれば、会社は数千億円の収入を得るかもしれない。 俺が苦心して彼女との婚姻関係を偽装したのは、彼女の薬物開発能力を利用するためじゃないか?雪乃、焦るな。 これから彼女が会社のために稼ぐ金は、すべて俺たち夫婦の共有財産になる。 そして彼女は、俺に追い出される時、一円たりとも手に入れることはできない!」
寧寧は呼吸が困難になった。
彼女はすぐに手で自分の口を覆った。 あまりの苦痛と憎しみに、叫び声を上げてしまいそうだったからだ。
彼女の両目は血走り、恐ろしいほど赤く染まっていた。
そうか、長年、自分は騙され続けていたのだ。
夫は自分を利用していただけで、愛などなかった。
それどころか、二人の婚姻関係は最初から偽装だったのだ。
雪乃は真佑の言葉を聞き、甘えるように笑って彼の唇にキスをした。
「真佑、あなたって本当に優しい……」
二人がキスを交わすのを見て、寧寧の瞳に宿っていた苦痛は、瞬く間に激しい憎しみへと変わった。
「川村真佑、何をしているの!」
「寧……寧寧、なぜここに?」
真佑の、いつもは冷徹な顔に、一瞬気まずさがよぎった。
寧寧は喉の奥の嗚咽を必死にこらえ、目を赤くして言った。 「私が来なければ、夫が幼馴染とキスしているなんて、どうして知ることができたというの!」
真佑は慌てて雪乃から手を離し、言い訳をした。 「寧寧、さっき飲みすぎたんだ……」
早川寧寧は彼にとって重要な資金源であり、彼女をなだめておく必要があった。
しかし、彼の手が寧寧に触れようとした瞬間、彼女はそれを激しく振り払い、目を赤くして彼を平手打ちにした。 「川村真佑、その汚い手で私に触れないで!」
平手打ちを食らった真佑は、もはや穏やかなふりを続けることができず、怒りに顔を歪めて叫んだ。 「早川寧寧、お前、気が狂ったのか!」
雪乃は歯を食いしばって問い詰めた。 「早川寧寧、真佑はあなたの夫なのよ。 どうして彼を殴ったりできるの!」
寧寧は冷笑を浮かべた。 その瞳には、拭い去ることのできない苦痛が宿っている。
「浮気男と、その男にすり寄る女を、殴って何が悪いというの?」
寧寧の瞳に、決然とした光が宿った。 「川村真佑、離婚しましょう!」
そう言い放つと、彼女は振り返ることなくその場を去った。
寧寧がホテルを出ると、外はすでに大雨が降っていた。
雨水が彼女の顔を濡らす。 それが雨なのか、涙なのか、自分でも分からなかった。
ただ、心がナイフで切り裂かれるように痛むことだけは確かだった。
その時、ある国からの電話がかかってきた。
彼女が電話に出ると、受話器の向こうから重厚な男の声が聞こえてきた。
『寧寧さんですか?私はあなたの父親、華国の富豪、松村隆一です』