「奥様、夕食の準備が整いました」
書斎のドアの外から、メイドの声が聞こえる。高木梓は返事をしなかった。彼女の視線は、デスクに置かれたタブレット端末の画面に釘付けになっていた。
画面にはリビングのソファが映し出されている。三時間前のタイムスタンプ。夫の伊藤暁が、息子の家庭教師である野口美優を抱きしめ、その唇を貪るように塞いでいた。
梓は無表情で画面をタップし、再生を停止した。室内は死んだように静まり返り、壁の時計の秒針が時を刻む音だけがやけに大きく響く。まるで、五年間の結婚生活の終わりを告げるカウントダウンのようだ。この裏切りが、一体いつから続いていたのか―――彼女は知らなかった。しかし、少なくとも監視カメラの映像によって、夫が過去 5 年間彼女に対して冷淡だった本当の理由が明らかになった。
彼が彼女の心臓病を心配していたわけではない。単に、彼女の他に、すぐ近くに恋人がいたということだ。
視線を上げると、デスクの上に置かれた家族写真が目に入った。写真の中の自分と暁、そして息子の隼人は、幸せそうに笑っている。その笑顔が、今はただの痛々しい皮肉にしか見えない。
涙は一滴も流れなかった。胃のあたりが氷のように冷たくなるのを感じながら、彼女は椅子から立ち上がった。本棚の一番奥、分厚い法律書の裏に隠された暗がりに手を伸ばす。取り出したのは、一見するとただのUSBメモリにしか見えない、暗号化された通信端末だった。
私用のノートパソコンにそれを接続すると、画面は瞬く間に複雑なコードの流れで覆われた。梓の指はキーボードの上を滑るように動き、一切の震えもない。長いコマンドを打ち込むと、暗号化されたチャットウィンドウがポップアップした。
宛先は一人だけ。「理事官」。
『籠の中の鳥は目を覚ました、帰巣を申請する、マスターキー、システムへのアクセス準備完了』
メッセージを送信すると、ほとんど間を置かずに返信があった。
『座標確認、「鍵」は準備済み、指示を待つ』
梓は全ての操作履歴を消去し、通信端末を元の場所に戻した。まるで何もなかったかのように。
彼女は立ち上がり、窓辺へ歩み寄った。階下の庭では、メイドたちが甲斐甲斐しく、たった今帰宅した野口美優のためにお茶と菓子を運んでいる。
美優はふと、二階の窓辺に立つ梓の姿に気づいた。彼女は怯むどころか、唇の端を、ごく僅かに持ち上げただけで、目だけが、勝ち誇ったように細められた。
梓の心は凪いでいた。まるで、足元で騒ぐ道化師を見下ろしているかのように。
その時、息子の隼人が庭を駆け抜け、美優の腕の中に飛び込んだ。
「美優先生、おかえりなさい!」
甘えた声が、窓ガラス越しにも聞こえてくる。高木梓は階下で親密に語り合う二人を黙って見つめていた。その瞳には失望と苦痛が入り混じっていた。まるで彼女の視線を感じ取ったかのように、隼人は窓の方を見上げた。隼人は母親の存在に気づくと、その表情から急速に光が失われた。冷たく、拒絶するような視線を一瞬だけ梓に向けると、彼は美優の背後に隠れるように身を縮めた。
その仕草が、鋭い針となって梓の胸を貫いた。夫の裏切りよりも深く、痛い傷だった。
彼女は静かに視線を外し、窓辺から離れた。心の中に残っていた最後の一片の躊躇いも、完全に消え去った。
ウォークインクローゼットを開ける。中には、暁が「伊藤夫人にふさわしい」と言って選んだ、華やかなドレスやスーツがずらりと並んでいる。梓はそれらを氷のような目で見つめた。
クローゼットの最も深い場所から、目立たない旅行鞄を取り出す。そして、数少ない、本当に自分自身のものと言える簡素な服を数枚、詰め込み始めた。
その時、スマートフォンの画面が光った。「親友」の小林彩香からのメッセージだ。
「梓、元気?暁さん、今日は何かサプライズとか用意してくれてるんじゃない?」
彩香がいつも、どこか探るように二人の私生活について尋ねてくることを思い出し、梓の胸に微かな疑念がよぎった。
彼女は淡々と返信する。
「ええ、彼は忙しいみたい」
スマートフォンを置き、自分のキャッシュカードと身分証明書を鞄に入れた。その中の一枚、結婚後に暁から渡されたクレジットカードが目につく。利用限度額はないに等しいが、全ての支出が彼に通知される仕組みになっている。
梓は軽蔑の笑みを浮かべ、そのカードを引き抜くと、ためらいなく屑籠に投げ捨てた。
小さなノートを取り出し、伊藤家を出る際に本当に持ち出すべき価値のあるものをリストアップし始める。宝石ではない。いくつかの重要な書類のバックアップデータだ。
ドアの外で足音がし、メイドが再び夕食を促す声がした。
「ただいま参ります」
梓は表情を整え、いつもの温厚で従順な伊藤夫人の声で応えた。
最後に旅行鞄を一瞥し、再びクローゼットの奥深くへと隠す。
階段を降りると、リビングには既に暁が戻っていた。彼は隼人と美優と楽しそうに談笑している。その光景は、まるで彼らこそが本当の家族であるかのようだった。
暁は梓に気づくと、即座に愛情深い夫の仮面を被り、彼女を抱きしめようと近づいてきた。
「梓、ただいま」
彼が腕を伸ばした瞬間、梓はまるで何かに気づいたかのように、無意識を装って半歩身を引いた。暁の腕が、空しく宙を切った。