成功を手に入れた彼は、何かにつけて「退屈だ」と口にするようになっていた。
それが、単なる気の緩みだと、あの頃の私は思っていた。
江崎凛々葉が現れてからだ。
彼女は、高校時代に私を執拗にいじめ抜いた相手だった。
慎一郎には、彼女の名前と、彼女が私にした仕打ちだけを話したことがある。
名前を口にしただけで、手が震えた。
慎一郎に写真を見せる勇気はなかった。
万一、慎一郎が彼女に惹かれたら——その恐怖が、私の口を重くした。
彼女が同じ名前の別人であってほしいと、祈ることしかできなかった。
だから、あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。
年末のパーティーだった。
慎一郎が「どうしても紹介したい人がいる」と言って、私を呼び出した。
会場の隅で、彼が腕を組んで立っていたのは、まぎれもなく凛々葉だった。
彼女は成長し、より洗練されていたが、あの目だけは変わらなかった。
私を見下す、あの目だけは。
凛々葉が慎一郎の腕に寄り添う姿を目にした瞬間、胃の底からせり上がってきたのは、高校の廊下で味わったのと同じ、冷たい恐怖だった。
彼女は私に気づくと、まるで初対面のように微笑んでみせた。
慎一郎はそれに気づかず、「高校の後輩なんだ」と紹介する。
後輩。
その言葉に、手のひらがじわりと汗ばんだ。
慎一郎は凛々葉の若さと華やかさに溺れた。
彼が彼女と最初に出会ったのは、ある起業家向けの交流会だった。
凛々葉はインターンとして参加しており、積極的に慎一郎に近づいたという。
後に知ったことだが、彼女は慎一郎の会社を徹底的に調べ上げ、彼の事業の中核にある技術を狙って、意図的に接触していた。慎一郎の会社が保有するAI解析エンジンの特許情報が、彼女の真の目的だった。
私との関係は、まるで過去の遺物のように扱われた。
公の場でも、私を無視することが増えた。
ある夜、会社のパーティーで、慎一郎は凛々葉を腕に抱き、私に一度も目を向けなかった。
私は隅で一人、シャンパングラスを握りしめていた。
その夜、彼は帰ってこなかった。
翌朝、週刊誌のゴシップ記事で、二人が高級ホテルから出てくる写真を見た。
ページを閉じる指先が、紙で切れるほど震えていた。
凛々葉は、私に会うたびに挑発的な態度を取った。
慎一郎の隣で、私の手首をちらりと見下ろす。
そこに残るのは、高校時代に彼女につけられた傷跡だ。
凛々葉はその傷跡に気づいているかのように、わざとらしく腕を組んだ。
慎一郎は、彼女の笑顔に頷くばかりで、私の手首の意味には、ついに最後まで気づかなかった。
弟の大空は、生まれつき重い心臓病を抱えていた。
六歳のときに拡張型心筋症と診断され、医師からは「成長するにつれて心臓移植が必要になる可能性が高い」と告げられていた。
海外での高額な移植手術だけが、彼を救う唯一の道だった。
慎一郎はかつて、「大空を救うためなら、どんな金でも出す」と約束してくれた。
大空の病室で、彼は自分の指を大空の小さな手に絡めながら、そう言ったのだ。
その時、病院の窓から差し込んでいた夕日が、妙に眩しかったのを覚えている。
私はその言葉を、神の啓示のように信じていた。
大空も慎一郎を慕っていた。
彼の部屋には、慎一郎がプレゼントした手作りの木製の飛行機の模型が飾ってあった。
「大きくなったら、慎一郎お兄ちゃんみたいになりたい」と、大空はよく言っていた。
——あの飛行機が、後にあんな形で砕かれることになるなんて。
大空の病状が悪化し、手術の期限が迫っていた。
国内の主治医からは「半年以内に移植を受けなければ、次の冬は越えられない」と宣告される。
私は必死で慎一郎に頼み込んだ。
「慎一郎、大空の容態が悪化しているの。手術の準備を始めないと」
しかし、彼の返答は冷たかった。
「今は会社の資金繰りが厳しい。少し待ってくれ」
受話器の向こうの声は、聞き慣れないほど遠かった。
その数日後、私はニュースで凛々葉が立ち上げた高級アパレルブランドの発表会を見た。
慎一郎が数億円を投資したと報じられている。
画面の端に映るゼロの数が、大空の心臓の鼓動をかき消していくようだった。
そして、絶望は現実になった。
大空は、移植手術を受けることなく息を引き取った。
十二月二十四日、クリスマスイブの夜だった。
病室の窓からは、街の明かりが遠くに見えていた。
小さな手が、私の手の中でゆっくりと冷たくなっていった。
何度さすっても、もう二度と握り返してはくれなかった。
葬儀は、私のカフェのパート代とわずかな貯金で賄った。
慎一郎は葬儀に顔を出さなかった。
代わりに、一本の電話が来る。
「大空君のことは残念だった。何か必要なことがあれば言ってくれ」
あまりにも事務的な口調に、返す言葉が見つからなかった。
耳の奥で、自分の心臓だけが嫌にうるさかった。
大空の死後、私は家に閉じこもり、泣き続けた。
三日間、カーテンを閉め切ったまま、ベッドの上で丸くなっていた。
食事も喉を通らなかった。
そんなある日、高校時代の同級生である北沢智彦からメールが届く。
「大丈夫か。何かあったら連絡してくれ」
智彦は、高校時代に一度だけ、いじめられていた私を助けてくれたことがあった。
そのとき彼は生徒会長だったが、私を庇ったことで凛々葉の標的にされ、彼自身もいじめの対象になった。
卒業後、彼は海外留学し、今はシンガポールで投資ファンドを運営していると聞いていた。
私は、その短いメッセージを何度も読み返した。
まるで暗闇の中で、たった一本の細い糸を手繰り寄せるように。
私はスマートフォンを握りしめたまま、しばらく迷った末に、短い返信を打った。
「ありがとう。今はまだ、大丈夫」
——まだ、大丈夫。
そう打ちながら、自分がもう全然大丈夫ではないことは、誰よりも自分が知っていた。
慎一郎は、大空が亡くなったことを知ると、突然、偽りの悲劇を演じ始めた。
SNSには、大空との思い出を語る投稿。
まるで、彼が大空の死を心から悲しんでいるかのように。
画面に並ぶ綺麗事の文字が、吐き気を催すほど眩しかった。
慎一郎はかつて、孤児院出身という境遇を乗り越え、自力で成り上がった。
だからこそ、私は彼に惹かれたのかもしれない。
彼は私に「君だけが僕の家族だ。一生大切にする」と言った。
私はその言葉を信じ、彼の全てを支えた。
しかし、その約束は今、凛々葉のために使われている。
彼女のために、慎一郎は豪邸を買い、ブランドを立ち上げた。
胸の奥で、何かがぱったりと音を立てて止まったような気がする。
大空が亡くなった夜、私は慎一郎に何度もメッセージを送った。
しかし、返事はなかった。
付き合い始めた記念日だったことも忘れ、彼は凛々葉と派手に食事をしていた。
翌朝、彼のSNSに投稿された凛々葉との笑顔の写真。
その写真を最後に、私は彼へのメッセージアプリを閉じた。
もう、打つべき文字は何もなかった。
だが、私が本当の意味で彼に支配されていたことを、この時の私はまだ知らなかった。
そして、彼が「凛々葉」という名前の先に、どんな顔を持つ女を知らないままであることも。
——この絶望の底で、私はまだ、本当の地獄を知らなかった。