「国道123号線で悪質な飲酒運転による重大事故が発生しました。白い乗用車が正常に走行していたSUVに故意に衝突し、SUVは横転。現在も車内に3名が取り残され、救助を待っている模様です……」
前田友菜の鼻腔を、むせ返るような土埃と生臭い血の匂いが強烈に襲い、胃の奥から何度も吐き気が込み上げてきた。
無意識に手足を動かそうとしたが、シートとエアバッグの間に完全に挟み込まれ、身動き一つとれない。辛うじて動かせるのは首から上だけだった。
友菜は必死に首を巡らせた。助手席にいる夫と、後部座席の息子の安否を確かめるために。
白い車が突っ込んでくる瞬間、彼女は夫と息子を守るため、咄嗟にハンドルを自分の方へ限界まで切り、自らガードレールに激突したのだ。
だから、二人は無事なはずだ。
案の定、視線の先では夫の岡崎光翔が助手席のドアを蹴り開け、後部座席から息子の陽向を抱き抱えて脱出するところだった。顔に軽い擦り傷がある程度で、二人とも大きな怪我はないようだ。
友菜は安堵の息を漏らした。光翔がすぐに自分を助け出してくれると信じて疑わなかった。だが、彼は自分たちに突っ込んできた対向車を食い入るように見つめたまま、一向に動こうとしない。
彼女は震える唇を開き、声を絞り出した。「光翔、私……肋骨が……折れたみたい……」
しかし光翔は聞こえていないかのように、呟いた。「奈々……」
そう言うと、なんと息子の手を引き、あの白い車へと向かおうとした。
胸の痛みがどんどん激しくなり、友菜の神経を容赦なく引き裂く。血が次々と溢れ出るのを感じ、意識が遠のき始めていた。
彼女は必死に息を吐き出し、光翔に向かって叫んだ。
「光翔……助けて!」
光翔は足を止めた。友菜を見るその目は、なぜか揺れていた。
すると、傍らにいた息子の陽向が突然叫んだ。「パパ、早く奈々おばちゃんを助けに行こう!腕から血が出てるよ!」
光翔は一瞬で視線を奪われ、友菜に向かって早口で言った。
「友菜、耐えてくれ!お前は肋骨が折れただけだ。だが奈々は腕に怪我をしている!彼女はピアニストで、手は彼女の第二の命なんだ!先に彼女を病院へ連れて行く。後で必ず迎えに来るから!」
そう言い残すと、もう迷わず、陽向を抱えて白い車へと一直線に走っていった。
友菜は信じられない思いで目を見開いた。前田奈々……本来なら自分のものであるはずのすべてを奪った、あの偽物の令嬢?
三年前、友菜と光翔の結婚を受け入れられず、心を病んで海外へ療養に行ったはずではなかったのか?なぜ突然帰国し、しかも故意に車で突っ込んできたのか?
血で霞む車の窓越しに、友菜は光翔が必死の形相で奈々を車から抱き出すのを見た。その手つきは、まるでこの世で最も尊い宝物を扱うかのように優しかった。
彼の腕の中の奈々も、両手を彼の首に回し、今にも折れそうなほどか弱い様子だった。
腕の擦り傷以外、どこにも怪我など見当たらなかった。
そうだ。友菜は知っていた。乗用車が大型SUVに正面衝突すれば、ただでは済まない。だからこそ、白い車が突っ込んでくる一秒前、彼女は死に物狂いで最大の衝撃を避け、白い車はSUVの車尾にぶつかっただけだったのだ。
この事故で、最初から最後まで最も重傷を負ったのは、友菜ただ一人だった。
それなのに、彼女は現場に置き去りにされ、夫が他の女を抱き、子供がその女を心配そうに囲む姿を、ただ見つめることしかできなかった。まるで彼らこそが本当の家族であるかのように、彼らは去っていった。
友菜は身をよじり、死に物狂いで外に向かって助けを求めようとした。
「助けて……誰か、助けて……」
口を開くたび、血が次々と溢れ出し、ダッシュボードに飛び散った。
友菜は目を閉じた。かつてないほど、悲しかった。
三年間連れ添った夫。児童養護施設から引き取り、一手に育ててきた息子。いつから彼らは、こんなにも自分に冷酷になったのか?
「隊長、ここにまだ人がいます!」
「どういうことだ?
現場にまだ人が残っているのに、なぜ報告しなかった!?」
「先ほど事故現場の乗客に確認したのですが、あの岡崎さんが『家族は全員脱出した』と断言したので、てっきり……」
「急げ!もう時間がない!重傷だ、出血が多すぎる。発見が遅れて、すでに低体温症を起こしている!」
朦朧とする意識の中で、友菜は耳元の慌ただしい会話を聞いていた。
「医者はどこだ? 患者は胸腔の肋骨が折れている、すぐに手術しないと命に関わる!」
看護師はストレッチャーを押しながら、焦ったように叫んだ。
「さっきの岡崎さんが、事故に遭った大切な人のために、主治医を全員最上階へ回してしまったんです!」
看護師は明らかに焦っていた。「あの人、手首を少し擦りむいただけなのに、どうしてそんなに医者が必要なんですか? 今、執刀できる医者がいなければ、この患者さんは死んでしまいます!」
大切な人……それは、前田奈々のことだろうか?
光翔、あなたは彼女のために、私に生き延びるチャンスすら与えたくないの?
友菜の目尻から涙がこぼれ落ち、意識は完全に闇へと沈んでいった。
朦朧とする中、最後に耳に届いたのは、いくつかの驚きの声だった。
「野村大輝先生? 国内外でトップクラスの外科医が、どうしてうちのような小さな病院に?しかも自ら執刀するなんて?」
「本来は国内最大の学術会議に出席するために帰国したらしいんだけど、開会直前に突然キャンセルして、わざわざここまで駆けつけてくれたらしいわ!」
「野村先生といえば、誰も寄せ付けない孤高の存在として有名なのに、どうしてこの患者さんにはこんなに特別扱いを……」
温かく大きな手が、彼女の氷のように冷たい手をしっかりと握りしめた。男の冷ややかな声には、微かな、しかし確かな震えが混じっていた。
「前田友菜、生きろ!」