暑い、体がひどく熱い……。
藤原月姫は、足元がおぼつかないながら必死に薄暗い廊下を走っていた。今日はクライアントとの重要な商談だったはずなのに。まさかあの男がおかしな真似をするなんて!
最後の力を振り絞って個室から逃げ出したものの、すでに薬効は全身に回っていた。体の内側から湧き上がる異変が、彼女の理性を飲み込もうとしている。
絶望に押しつぶされそうになったその時、角を曲がったところで、誰かの硬い胸に激しくぶつかった。
彼女は溺れる者が藁をも掴むように、その男の腕にすがりついた。「助けて……お願い!」
男の体からは、冷たく澄んだシダーウッドの香りが漂っていた。月姫は本能のままに、その香りを求めた。
朦朧とする意識の中、男が低く抑えた声が耳に届いた。
「君から誘ったんだな」
次の瞬間、体が軽く持ち上げられた。
月姫が状況を理解する間もなく、意識は急速に遠のいていった。
だが、それはほんの始まりに過ぎなかった。あとはもう、何も考えられなかった。
部屋の中には、甘い空気が広がっている。
薄暗い照明が、寄り添う二人の姿を静かに照らし出していた。
どれほどの時間が経ったのだろうか。月姫が再び重い瞼を開けた時、窓の外はすでに明るくなっていた。
少し動いただけで、全身が軋むような鈍痛が走り、昨夜のことが決して夢ではなかったことを容赦なく突きつけてくる。
その時、耳元で氷のように冷酷な声が響いた。「いくら欲しい?」
月姫は声のした方へ視線を向け、そのまま固まった。
そこにいたのは、見知らぬ男ではない。彼女が結婚して三年になる夫、岡崎輝優だった。
なぜ、彼がここにいるの? まさか、昨夜の男は彼だったというの?
輝優は、月姫が自分の顔を呆然と見つめているのを見て、心底嫌悪するように眉をひそめた。彼は無造作に小切手を一枚投げ置き、冷酷に言い放った。「金を受け取って、さっさと消えろ。身の程知らずな夢を見るなよ」
昨夜、彼は接待を終えてホテルの部屋に戻ろうとしていた。すると突然、この女が抱きついてきて、必死にすがりついてきたのだ。
普段から女を近づけない彼が、見ず知らずの女の挑発に乗って理性を失うなど、これまで一度たりともなかった。
だからこそ、余計に不快だった。
月姫は呆然とし、ようやく違和感に気づいた。「私のこと、わからないの?」
「見ず知らずの女を、俺が知っているとでも?」輝優は鼻で笑い、蔑むように言った。
「違うわ、誤解よ! 私は……」月姫は必死に弁解しようとしたが、その言葉は無惨にも遮られた。
「黙れ、さっさと出て行け!」輝優は苛立ちを露わにし、冷酷に追い討ちをかけた。「二度と俺の目の前に現れるな!」
そう言い捨てると、彼は振り返りもせず部屋を出て行った。
月姫は手の中の小切手を握りしめたまま、しばらくその場に立ち尽くしていた。あまりの滑稽さに、自嘲の笑みがこぼれる。
自分の夫と一夜を共にしたというのに、彼は妻の顔すら知らなかったのだ。
三年前、彼女は輝優のおばあ様・岡崎晶子の強い意向で、輝優と政略結婚をした。
だが、輝優はこの結婚に猛反発し、結婚式の当日に海外へ飛び立ってしまった。それから三年間、彼は一度も帰国せず、彼女は千代市中の笑い者として耐え忍んできた。
一度も顔を合わせぬまま三年が過ぎたが、その初めての対面が、まさかホテルのベッドの上になるなんて。
月姫は、体のあちこちに残る違和感を感じ、心の中で深くため息をついた。
彼女は硬直した体に鞭打ってベッドから這い出し、ふらつく足取りでバスルームへと向かった。
シャワーを浴びて出てくると、タイミングよくスマートフォンが鳴った。
画面を見ると、以前仕事で世話になった優良顧客、明智雄悠からの着信だった。
通話ボタンを押すと、雄悠の明るく軽快な声が耳に飛び込んできた。「藤原先生! 最近調子はどう?」
軽い挨拶を交わした後、雄悠はすぐに本題に入った。
少し前、月姫は雄悠の依頼で訴訟を見事に勝ち取り、彼に最大限の利益をもたらしたことがあった。
雄悠はその恩返しとして、彼女に大口のクライアントを紹介したいと言うのだ。
仕事の話と聞き、月姫は輝優に対する複雑な感情を心の奥底に押し込め、プロの顔に戻った。「相手はどんな方ですか? 状況を少し教えていただけますか」
「実はね、俺の友人が海外で大きなプロジェクトを落札したんだけど、その貨物が税関で止められちゃってさ」
「この分野のトップ弁護士といえば先生しかいないと思って、力を貸してほしいんだ」
新規の依頼が舞い込むのは、当然ありがたいことだ。月姫は微笑みながら、謙遜して答えた。「力を貸すだなんて、とんでもない。お互い様ですよ」
雄悠の社会的地位を考えれば、紹介されるのは間違いなく超大型案件だ。
月姫の沈んでいた心は一気に晴れやかになり、彼に心から感謝を伝えた。「素晴らしいクライアントをご紹介いただき、本当にありがとうございます」
雄悠はいくつか社交辞令を返した後、こう付け加えた。「友人と会う場所の住所を送るから、今すぐ向かってくれないか? 直接話を聞いてやってほしいんだ」
月姫の体はまだ鉛のように重く、気だるさが残っていたが、このチャンスを逃すわけにはいかない。彼女は二つ返事で引き受けた。住所のメッセージを受け取ると、彼女は急いで身支度を整え、指定された「バー・月影」へと急行した。
だが、階段を上がり、案内されたVIP ルームの扉を開けた瞬間、彼女は我が目を疑った。
そこでふんぞり返って座っていたのは、今朝最悪の別れ方をしたばかりの、名ばかりの夫。
岡崎輝優、その人だったのだ!