「急げ!血液センターに連絡して、RHマイナスAB型の赤血球製剤を、確保できるだけ回してもらえ!」
手術室のドアがバンッと開き、医師が慌てた様子で飛び出してきた。「患者が大量出血している!今すぐ輸血が必要だ!」
その声に、廊下にいた看護師たちが一斉に駆けだした。
「先生!」
小林凛花は、絶えず血が流れ続ける足を引きずり、激痛をこらえながら医師に駆け寄った。「娘は……うちの娘は、どうなんです!?」
「奥さん、お子さんは出血がひどく、いつ命を落としてもおかしくない状態です……」
医師は凛花の骨が見えるほど深い傷に目を落とした。「あなたの傷もすぐに処置をしないと……ご主人は?」
何度もかけ続けたせいで熱を持つスマホを握りしめ、凛花は絶望を滲ませた。「……連絡が、つきません」
1時間前、娘の藤原莉乃を幼稚園に迎えに行った帰り、凛花は交通事故に遭った。
運転手は即死、後部座席にいた彼女と莉乃も共に重傷を負った。
こんな一刻を争う状況で、夫の藤原雄大とはどうしても連絡が取れなかった。
「あまり思いつめないでください」
彼女の様子を見かねた医師が、声を落として慰めた。「確かにお子さんは珍しい血液型ですが、数日前に市の血液センターへRHマイナスAB型の赤血球製剤がまとまって入ったばかりです。輸血用の在庫は確保できます」
「それに、すでに白川市でトップクラスの専門医たちにも招集をかけています」
「お子さんの輸血が間に合い、先生方が到着すれば……きっと助かります」
凛花は、ようやく安堵のため息をついた。
興奮して医師の手を握る。「ありがとうございます!娘を助けていただけたら、お礼はいくらでも……!夫は、藤原グループの者なんです……」
「大変です!」
先ほどの看護師が血相を変えて戻ってきた。「血液センターからです!市内ですぐ供給できるRHマイナスAB型の赤血球製剤は、藤原グループの系列病院へ回されたそうです!」
「なんでも、社長秘書が貧血で少しめまいがするから、輸血が必要だとか……」
凛花の頭の中で、何かが弾け飛んだ。
事故から今まで、雄大に30回以上電話をかけている。
電話に出る時間はないのに、貧血でふらつく秘書のためなら、娘の命綱となる赤血球製剤まで根こそぎ押さえる時間はあるというのか!
「その藤原社長と連絡を取ってくれ!こっちは命がかかってるんだ!」
「連絡はしましたが……藤原社長は、秘書の命も命だと……」
「構わん、連絡を続けろ!」
医師は悪態をつくと、続けた。「専門医の先生方は?あとどれくらいで着く?」
「その先生方も、藤原社長の指示で足止めされ、秘書の診察に向かわされたと……」
凛花は目の前が真っ暗になるのを感じた。
壁に背を預け、崩れ落ちそうな体を必死で支える。震える手で、雄大の秘書である杉本彩花の番号を探し出し、電話をかけた。
電話の向こうから、杉本彩花の甘ったるい声が聞こえる。「奥様、どうかなさいました?」
電話の向こうからは、はっきりと雄大の声も聞こえてきた――
「彩花のめまいはまだ治まってないんだ。今ここから赤血球製剤を持っていかれて、容体が悪化したらどうする?」
スマホを握る指の関節が白くなる。凛花は、ほとんど叫ぶように言った。「藤原雄大に代わって!」
彩花は怯えたように、わざとらしく声を震わせた。「雄大さん、だからさっき奥様の電話に出たほうがいいって言ったのに。ほら、怒らせちゃったじゃないですか」
すぐに、電話の向こうから雄大のひどく苛立った声が響いた。「小林凛花、何を騒いでいる?」
「彩花が体調を崩しているんだ。上司として面倒を見ているだけなのに、嫉妬か?」
凛花は唇をきつく噛みしめ、泣き声交じりに訴えた。「私と莉乃が、事故に遭ったの。莉乃は大量に出血して、今病院で……輸血と専門の先生がすぐにでも必要なの!」
「あなたが押さえた赤血球製剤と先生方を、今すぐこっちへ回して!」
「早くしないと、あの子、死んじゃうのよ!」
電話の向こうがわずかに沈黙し、やがて雄大の冷え切った声が返ってきた。「小林凛花、俺が彩花の面倒を見るのがそんなに気に入らないか。莉乃が死にかかっているなんて嘘までついて」
「嫉妬心から実の娘を呪うとはな。母親失格だ」
言うが早いか、彼は一方的に電話を切った。
かけ直しても、電源が切られていただけだった。
底知れぬ絶望が押し寄せる。凛花は歯を食いしばり、雄大の側近や友人たちの番号を片っ端から探し出し、電話をかけまくった。彼に働きかけてくれるよう、必死に頼み込んだ。
だが、返ってきたのは嘲笑だけだった――
「申し訳ありません、奥様。社長から、奥様からのご伝言は一切取り次ぐなと……」
「社長は、娘さんを嫉妬のための道具にするなと。頭を冷やしてください、とのことです」
「奥さん、彩花さんはあなたの地位を脅かしはしませんよ。子供をダシにして気を引こうだなんて、やめた方がいい」
……
時間だけが刻一刻と過ぎていく。凛花の心は絶望に蝕まれていった。
手術室の扉を見つめる瞳から、もう涙も出なかった。
ーー私の莉乃は、まだ6歳なのに!
あの子の人生は始まったばかりなのに、手当てが間に合わないせいで、ここで終わってしまうなんて……。
「白川市内ですぐ供給できる赤血球製剤と救命救急の専門医は、藤原雄大氏に押さえられています」
床にへたり込む凛花を見て、医師が痛ましげに告げた。「今、お子さんを救うには……隣の海鳴市に助けを求めるしかありません」
「ですが、海鳴市から赤血球製剤を車で運べば5、6時間はかかります。それでは到底、間に合わない……」
海鳴市……。
その言葉に、凛花ははっと顔を上げた。「私……方法があるかもしれません」
着信拒否リストの奥からある番号を呼び出すと、震える指で発信ボタンを押した。「以前、私が結婚を承諾さえすれば、どんな条件でも呑むと言ってくれたわね。……その言葉、今も有効?」
男の低い声が答える。「ああ」
凛花は目を閉じた。「娘が事故に遭って、いつ亡くなってもおかしくない状態なの。RHマイナスAB型の赤血球製剤と、救命救急に対応できる専門医が何人か必要で……」
「その病院の屋上にヘリポートはあるか?」
彼女が言い終える前に、男の落ち着いた声が遮った。「1時間後には、専門医も赤血球製剤もそちらへ着く」