ピペットの先から落ちた一滴の試薬が、試験管の中で淡い青色に濁った。
竹内理乃は乾ききった目を瞬かせることも忘れ、操作台の数値をじっと睨みつけていた。三日三晩、この横浜のクリーンルームに籠もりきりで遺伝子配列の解析を続けている。指先は氷のように冷たく、極度の疲労でこめかみが脈打つたびに、視界が白く明滅した。
その張り詰めた静寂を、作業台の上で激しく震えるスマートフォンの振動音が切り裂いた。
理乃は眉をひそめ、薄いラテックス手袋越しに画面をタップした。ディスプレイには『慶応付属病院・救急』の文字が赤く点滅している。
「もしもし、竹内です」
『竹内理乃さんですね?! お母様の洋子さんの容態が急変しました。白血病の急性転化による多臓器不全の兆候が出ています。今すぐ集中治療室に移す必要があります!』
主治医の緊迫した声が、理乃の鼓膜を容赦なく打った。
「母が……? そんな、先週までは落ち着いていたはずでは……」
『猶予は多くないです。できれば本日中に五百万円の保証金を用意していただきたい。どうしても難しければ、病院のルール上、明朝九時が絶対のタイムリミットとなります。転院承諾書もそれまでに必要です』
血の気が一気に引いていくのが分かった。心臓が胃袋の底へ滑り落ちたかのような強烈な落下感に襲われ、理乃は荒い息を吐きながらゴム手袋を力任せに引き剥がした。
洋子は養母に過ぎないが、理乃にとって実の母親と何ら変わらない存在だ。
「すぐに向かいます! 処置をお願いします、必ず工面しますから!」
通話を切ると同時に実験ノートを乱暴に閉じ、白衣の裾を翻して更衣室へと走った。
すれ違う研究員たちが奇異の目を向けてくるのも構わず、コートを掴んで主管室のドアを押し開けた。
部屋の中では、開発主管の生田博貴が革張りのソファに深く腰掛け、湯気を立てる高級コーヒーをすすっていた。
「生田主管、至急の有給申請をお願いします! 東京の母が危篤で、どうしても今すぐ戻らなければならないんです」
息を切らしながら差し出した申請書を、生田は一瞥すらしようとしなかった。
カップをソーサーに置く、カチャリという乾いた音が室内に冷たく響く。
「竹内くん、君は自分が何のプロジェクトを背負っているか分かっているのかね? 新規遺伝子抑制剤の検証は今が正念場だ。代役などいないよ」
「ですが、母の命がかかっているんです! データの基礎入力は終わっています、残りの機械監視なら他の研究員でも――」
「駄目だと言ったら駄目だ」
生田は冷笑を浮かべ、指先で申請書を理乃の胸元へ押し返した。
「これはね、赤崎雅人取締役からの直々の厳命なんだよ。君を一歩たりともこの研究所から出すなとな。文句があるなら、君のその立派なご主人に直接言いたまえ」
雅人の名前が出た瞬間、理乃の喉の奥が引き攣った。
赤崎HDの執行取締役であり、理乃の夫である男。そして、この研究所の全権を握る冷酷な支配者。
理乃は震える手でスマートフォンを取り出し、雅人のプライベート番号をタップした。呼び出し音が冷たく鳴り響く。一度、二度……切断。
諦めずに三度目の発信ボタンを押したとき、ようやく通話が繋がった。
受話器の向こうから聞こえてきたのは、クラシック音楽が優雅に流れる高級クラブの喧騒と、聞き慣れた男の苛立ちに満ちた声だった。
『何の用だ。会議中だと分かっているだろう』
「雅人さん……お願い、助けて。母さんの病状が悪化して、今夜中に五百万円の手術費が必要なの。今すぐ東京へ戻らせて」
『……またその話か』
雅人の鼻で笑う気配が、冷気となって耳朶を打った。
『くだらない嘘で仕事を投げ出すな。お前の母親がどうなろうと、赤崎HDの特許進捗には何の関係もない』
「嘘じゃない! 本当なの、このままじゃ母さんが死んでしまう……!」
『黙れ』
雅人の声は、真冬の刃物のように冷たかった。
『莉音の名前で出す特許の最終データが、まだ完成していないそうだな。今夜中にあれを仕上げろ。できなければ、お前にもその母親にも赤崎家の金は一銭も出さない』
受話器の奥から、甘ったるい女の声が微かに漏れ聞こえた。
『雅人お兄ちゃん、早く乾杯しましょうよぉ……』
理乃の指先が白く強張った。早見莉音。赤崎家の養女であり、理乃が徹夜で書き上げた研究成果を、すべて自分の手柄として横取りしてきた女。
「雅人さん、私たちは……私たち夫婦は、あなたにとって何なの?」
『お前が勝手に勘違いしているだけだ。身の程を弁えろ』
ツーツーという無機質な切断音が響いた。
世界からすべての音が消え去ったかのような静寂の中、生田の嘲笑う声が突き刺さる。
「ほらね。取締役のお言いつけだ。席に戻ってデータをまとめなさい」
理乃は、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳の奥で三年間にわたって燻り続けていた最後の情熱が、完全に凍りついた。
彼女は手にしていた有給申請書を両手で掴むと、生田の目の前で音を立てて引き裂いた。白い紙片が床に散らばる。
「なっ……何を狂った真似を!」
理乃はデスクの上のメモ帳を一枚引き寄せ、万年筆を走らせた。
黒々としたインクで刻まれた文字は――『退職願』。
「今日限りで、赤崎HDを退職します」
「馬鹿を言うな! 勝手な退職など認められるわけが――――」
「承認など求めていません。労働基準法に基づき、一方的に通告します」
理乃は退職願を生田の胸元に叩きつけると、一度も振り返ることなく主管室を出た。
デスクに戻り、私物をバッグに詰め込む。周囲の研究員たちがひそひそと「首を切られた」「雅人取締役に捨てられた」と嘲笑の視線を投げかけてくるが、理乃の心には波風一つ立たなかった。
彼女は自身が構築した未発表のコアデータ、個人暗号署名とタイムスタンプが埋め込まれた生ログ一式の入った暗号化ポータブルドライブを引き抜き、首から下げていた社員証をデスクに置いた。
胸に赤崎HDのロゴが入った白衣を脱ぎ捨て、回収ボックスへと正確に放り込む。
本来廃案としてゴミ箱に捨てた R‑09 の予備コピーが、誰かに拾われて流出したことにはまだ気づいていなかった。
研究所の外に出ると、横浜の海風が肌を刺すように冷たかった。
口座残高を確認する。表示された数字は、わずか三十五万円。母の命を繋ぐには、あまりにも絶望的な額だった。
理乃は養父である竹内正造に電話をかけたが、受話器の向こうから聞こえてきたのは、けたたましいパチンコ玉の音と「金なんて全部スッた」という卑屈な言い訳だけだった。
選択肢は、もう一つしかなかった。
理乃は目の前に停まったタクシーに乗り込み、新横浜駅へと向かった。
新幹線の車内で目を閉じると、スマートフォンに人事部からの出勤督促メールが何通も届く。理乃は画面も見ずに、その番号を着信拒否に設定した。
東京・品川駅に到着したとき、空からは冷たい小雨が降り注いでいた。
傘も差さず、理乃は港区の高級住宅街へと向かう地下鉄に乗り換えた。
坂道を登り、辿り着いた赤崎家の豪邸。重厚な鉄門の前に立ち、暗証番号を入力する。
――ピーッ、ピーッ。
無機質なエラー音が鳴り響いた。暗証番号が無効化されている。
理乃はインターホンを押した。モニターに映し出された老執事の顔には、隠しようもない軽蔑の色が浮かんでいた。
『どなたですか』
「理乃です。開けてください」
『申し訳ございません。奥様……あいや、莉音お嬢様と旦那様から、部外者を通すなと厳命されておりますので』
「私はまだ、雅人の戸籍上の妻です。三秒以内に開けなさい。さもなくば不法占拠と締め出しで警察を呼びます」
冷徹な声に気圧されたのか、カチャリと重い解錠音が響いた。
理乃が濡れた中庭の敷石を踏みしめ、リビングの巨大なガラス窓へと近づいたとき――室内の眩いシャンデリアの光の下で繰り広げられている光景が、その目に飛び込んできた。
理乃の足が、ピタリと止まった。