「片平様。こちらが松島恵子様の死亡診断書になります」
帝都西郊の斎場、霊安室。黒服の職員が深く頭を下げ、一枚の紙を差し出した。
泉美は冷たいコンクリートの床に膝をついたまま、祖母の遺影の縁を握りしめていた。爪が白くなるほど強く。
窓を豪雨が叩いている。白蝋燭の炎が揺れ、徹夜で血走った琥珀色の目を淡く照らした。
職員が小さく息をついて退室する。泉美は視線を落とした。
死因の欄に並んだ文字――『突発性広範囲脳出血』。
「……突然、ね」
泉美は下唇を噛んだ。滲んだ血の味が口に広がっても、痛みは感じなかった。
昼間のことは、近所の証言でしか知らない。
藤野商事の令嬢・藤野奈津子が、ボディガードを連れて骨董通りの古美術店に乗り込んだ。でたらめな担保を突きつけ、孤児を拾った老婆の分際でと祖母を罵倒した。
祖母はその場に崩れ、二度と起き上がらなかった。
胸の奥が軋んで、息が浅くなる。泉美は震える指先を鎖骨の下に当てた。淡いピンクの小さなほくろ。物心つく前から、ずっとここにある。
懐から、古い紋章を彫った木箱を取り出す。
祖母が最期まで抱きしめていた形見。天涯孤独の泉美にとって、自分の生まれを知る唯一の手がかりだ。
真鍮の留め金が、乾いた音を立てた。
「おばあちゃん」
掠れた声が、蝋燭の炎を震わせる。
「あなたを殺した連中に、必ず同じ苦しみを味わわせてやるから」
その時、ポケットのスマートフォンが一度だけ震えた。
特注の暗号化端末。画面には、全世界の政財界情報網を握る国際戦略情報機構「W」の最高権限通信の印が、青く光っている。
スライドして耳に当てると、部下の押し殺した声が届いた。
『最高統括Y、ご報告です。藤野奈津子が先ほど渥美総合病院を出て、車で西郊へ向かいました』
渥美総合病院。渥美グループが持つ、修也の病院だ。
泉美の目が、一枚の氷になった。
『尾行を続けて。私が合図するまで、手を出すな』
通話を切った直後、祭壇に置いたもう一台のスマートフォンが鳴った。
画面の名前に、泉美は再び唇を噛む。渥美修也。三年間の契約上の夫。
『今、どこにいる。今夜の渥美グループの家族会食、君は欠席したそうだな』
低く、温度のない声だった。
『修也。今日の午後……おばあちゃんが亡くなったの』
向こうが黙り込んだ。五秒ほどの空白のあと、声は何の揺らぎもなく続いた。
『死んだ人間は戻らない。葬儀を終えたら本邸へ戻れ。マスコミに嗅ぎつけられるな』
一方的に切れた。ツーツーという電子音だけが耳に残る。
三年間の極秘結婚。渥美グループの総帥にとっては、公表すらできない取引でしかないのだ。
どれほど経ったのか、雨音が次第に弱まっていった。
廊下の奥から、ハイヒールの足音が近づいてきた。水たまりを踏む、軽快な音。
黒い長傘が扉の脇に立てかけられ、純白のドレスを纏った藤野奈津子が敷居を跨いだ。
巻いた栗色の髪を胸元に垂らし、左目の下の泣きぼくろが儚げに見える。けれど唇には、隠しきれない嘲笑があった。
背後には黒服のボディガードが二人。狭い霊安室の出入口を、完全に塞いでいる。
奈津子はボディガードから安物の白菊を受け取ると、遺影の足元へ無造作に放り投げた。
乾いた音が床に響いた。
泉美は弾かれたように立ち上がり、祖母の前に立ち塞がる。
「誰の許可を得て、ここへ入ってきたの」
奈津子はレースのハンカチで鼻先を押さえた。甘ったるい声に、毒が滲んでいる。
「おばあ様が亡くなったと聞いて、修也お兄ちゃんの代わりに様子を見に来てあげたのよ」
「今日の午後、店に手下を連れて押し入り、私のおばあちゃんを殺したのはあなたね」
奈津子はわざとらしく瞬きを重ね、目元を赤く染めてみせた。
「泉美さん、言葉には証拠が必要よ。ご高齢で勝手に脳出血を起こしたのを、善意で忠告しに行った私のせいにするなんて、あんまりだわ」
窓の外で雷が鳴った。閃光が、奈津子の瞳の奥の陰湿な勝ち誇りを照らし出す。
奈津子は一歩近づき、泉美の耳元で囁いた。
「ゴミ拾いの老婆に育てられた孤児が、いつまで渥美夫人の座に居座るつもり? 身の程を知って、さっさと消えなさい」
泉美の右手が、風を切って振り上げられた。
奈津子の頬を捉える直前――横合いから伸びた骨ばった大きな手が、その手首を掴んだ。
泉美が息をのんで振り向く。底知れない暗さの漆黒の瞳とぶつかった。
雨に濡れた黒のスーツ。冷酷な表情の渥美修也が、すぐ隣に立っている。
修也は泉美の手首を乱暴に振り払うと、もう彼女へ視線を戻さなかった。涙ぐむ奈津子を背後へ庇い、氷のように冷たい声で言い放つ。
「片平泉美。いい加減にしろ。ここでこれ以上、騒ぎを起こすな」
祖母の通夜に、夫は一度も顔を出していない。なのに、この女の護衛には来た。