「妊娠したのか?」
耳元で響いた低く冷たい声に、松沢愛香の全身から血の気が一瞬にして引いた。
「一千万やる。明日、すぐにその子を堕ろせ」
夫の西沢慎司が手で彼女の顎を掴んだ。関東の政財界を牛耳る西沢ホールディングスの若き最高権力者。その冷たい双眸には、一片の優しさもない。
不意を突かれた愛香は、妊娠検査の結果を握りしめたまま、必死に平静を保とうとした。今日は二人の結婚三周年記念日。彼女は緊張と期待を胸に、妊娠したことを告げたのだ。
なのに、彼は子供を堕ろそうとしている。
「どうして……あなたの子供なのに」
「西沢家の跡取りが、どこの馬の骨ともわからん女の腹から生まれるなど許されない。明日、病院を手配する」
三年前に大学を中退し、素性の知れない女として西沢家に嫁いで以来、彼女はこの屋敷で使用人以下の扱いを受け、ただ彼の冷たい背中を見つめ続けてきただけだった。
「……じゃあ、この三年間の結婚は、一体何だったの?」
愛香はガラステーブルの上のグラスを取り、震える手で彼に水を差し出した。
慎司は苛立たしげにネクタイを緩め、氷のように冷たい声で言った。
「結衣が帰国する。西沢家の若奥様の座は、あいつに返すべきだ」
ピタリと息が止まり、胸の奥から空気が奪われていく。愛香は思わずよろめいて半歩後退り、ソファの背もたれにすがりついてどうにか体を支えた。
島崎結衣。
慎司が五年前から想い続け、西沢家の誰もが本物の嫁と認める名門の令嬢。愛香はスカートの裾を、指の関節が白くなるほど強く握りしめた。
慎司は不機嫌そうに眉を寄せ、あらかじめ用意していた離婚届をガラステーブルの上へ放り投げた。
「今すぐサインしろ。子供を盾にして西沢家を脅せるなどと、浅ましい真似を考えるな」
心臓を握り潰されたような激痛の中、愛香は静かに瞳を閉じた。彼への最後の未練も幻想も、この瞬間、完全に消え去った。
足を引きずるようにガラステーブルへ歩み寄り、置かれていた万年筆を手に取る。
署名欄に自分の名前を書き終えると、愛香はその書類を慎司の元へと押し戻した。糸の切れた操り人形のように機械的な動作のまま、枯れ果てた声が喉から零れる。
「慰謝料も、財産も、何もいらない。……だから、二度と私の前に現れないで」
一切の躊躇いを感じさせないその手つきに、慎司の心臓がなぜか不規則に跳ねた。
だが、胸の奥から湧き上がる理由のわからない苛立ちが、その違和感をすぐに押し潰してしまう。彼は低く鼻を鳴らすと、返事もせずに背を向け、大股で書斎へと向かって扉を閉ざした。
ひとり残された愛香は、ドレスルームへと向かった。慎司が買い与えた高価なオートクチュールのドレスにも宝石にも目もくれず、結婚前に着ていた古い服を数枚だけ、色あせたキャンバスバッグに詰め込む。
部屋を出てダイニングテーブルの横を通りかかった時、ふと足が止まった。
晩餐のために自ら腕を振るった最高級の和牛は、すっかり冷めきり、白い脂が固まり始めていた。愛香は自嘲するように口元を歪めると、皿ごと抱え上げ、ゴミ箱の奥へと一気に滑り落とした。
陶器が鈍く割れる音を背に、バッグを肩に掛けて玄関へと向かう。履き慣れた古いスニーカーに足を通し、ドアノブに手をかけた。自分を三年間閉じ込めていた豪奢な牢獄を、最後にもう一度だけ振り返る。
玄関の重い扉が閉まる音が屋敷に響いた瞬間、書斎のデスクに向かっていた慎司の手がピタリと止まった。握りしめた万年筆の先から黒いインクが零れ落ち、決裁書類の上に大きな染みを作っていく。
そこへ老執事が、温かい茶を乗せたトレイを手に、静かに書斎へ入ってきた。誰もいないリビングと、ゴミ箱に捨てられた豪勢な料理を目にしてきた執事は、慎司の険しい横顔を窺いながら恐る恐る口を開いた。
「旦那様、奥様があのような薄着で出て行かれましたが……運転手に向かわせましょうか?」
慎司は冷え切った眼差しで執事を一瞥し、低く吐き捨てた。
「西沢家に、もう奥様などいない。放っておけ。外で少し痛い目を見れば、三日も経たずに自分から泣きついて戻ってくる」
***
東の空が白み始めた午前六時。一睡もできぬまま朝を迎えた慎司は、ガラステーブルの上に置かれたままの、署名済みの離婚届を見つめながら、胸の奥で渦巻く得体の知れない焦燥感に苛まれ、眉間を強く揉みほぐした。
スマートフォンを取り出し、筆頭秘書の渡邊拓海を呼び出すと、冷酷に命じた。
「松沢愛香が身を寄せている安ホテルを突き止めろ。そのまま医師を手配し、処置を今日中に終わらせるんだ」
だが、それから一時間後、渡邊から折り返された声は激しく上ずっていた。
『社長、大変です! 奥様の足取りが完全に途絶えました。防犯カメラの映像も、交通機関の利用履歴も、銀行口座の記録に至るまで……すべて何者かの手によって、跡形もなく消去されています!』
その報告を聞いた瞬間、スマートフォンを握りしめる慎司の指がきしりと音を立て、白く強ばった。
その黒い瞳に、生まれて初めて制御できないほどの激しい怒りと、昏い執念が燃え上がっていた。