今夜は親友の婚約者との食事会に来ただけだった。引き戸が開いた瞬間、古林結葉は全身の血が凍るのを感じた。
上座の男の左手首に、五年前に自分が置き忘れた古い黒いヘアゴムが巻かれている。
藤代光一。五年前、結葉が自分の手で振った元恋人だ。なのに今は、まるで他人を見るような冷たい目で結葉を見返していた。
仲居がまだ檜の引き戸を押さえている。沈香と酒の匂い、男たちの笑い声が戸の隙間から溢れてくる。結葉は敷居の外に立ち、指先に洗面台の冷水の冷たさが残っていた。
十分前、彼女はまだ銀座の高級料亭「清風閣」の洗面台の前で、色の褪せた黒いスーツを整えていた。
「結葉、今夜は一登の友人たちと簡単に顔合わせするだけだから。あなたは私の一番大事な友人代表なんだから、そんなに緊張しないでね」
豊川莉乃がハイヒールの音を響かせて後ろから近づき、親しげに結葉の腕を組んだ。結葉はハンカチで指先を拭うと、大学時代からの親友で心療内科医の莉乃に穏やかな笑みを返した。
「ええ、わかってる。莉乃のお祝いの席だもの、ちゃんとするわ」
横浜で刑事弁護を専門にする弁護士。毎月の収入の大半は巨額の賠償金と病院への支払いに消え、こんな場所に着て来られる服は、この古いスーツ一着しかなかった。
莉乃と並んで敷居を跨いだとき、結葉の視線は再び上座の男にぶつかった。
男は背が高く、体つきは引き締まっている。気だるげにグラスを揺らす姿には、どこか人を寄せつけない空気があった。黒い短髪は整えられ、深く暗い切れ長の瞳は、すべてを見透かすようだった。
光一のすぐ隣には坂東蘭紗が座っていた。ハニーブラウンの長い巻き髪が肩から滑り落ち、左手首のダイヤモンドのブレスレットが照明を受けて眩しく光る。港区で名を馳せる財閥令嬢であり、幼い頃から光一を追いかけ回している幼馴染だ。蘭紗はわずかに眉をひそめ、金箔の浮かぶお猪口をテーブルに置くと、指先で毛先を弄りながら、結葉の履き古したパンプスからスーツまでを値踏みするように見下ろした。
「こちらは莉乃の親友の古林さん。今は横浜で弁護士をしていてね、今日はみんなに紹介したくて来てもらったんだよ」
徳山一登が満面の笑みで立ち上がり、両手で酒器を掲げるようにして上座へ深々と頭を下げた。今夜の新郎であり、商社の中間管理職で、莉乃の婚約者でもある。周囲の同僚たちが小声で囁き合った。
「さすが宇宙航空研究開発機構の推進部門を率いる藤代家の御曹司だ。若くして国の最重要プロジェクトを任されているエリートは、放つオーラが違うな」
ある者は杯を掲げ、ある者は媚びるような笑みを向けた。
光一はただ淡々とうなずいただけだった。
「横浜の弁護士? 誰かと思えば、昔、光一お兄様に将来性がないからって見限って、あっさり別の男のところへ逃げた古林結葉さんじゃない」
蘭紗が鼻で小さく笑う。決して大きな声ではないのに、その一言は静まり返った個室の隅々まで残酷なほどはっきりと響いた。
酒を注ぎ合っていた男たちの手が止まった。同僚たちは気まずそうに顔を見合わせ、和やかだった空気が一瞬にして凍りつく。
「坂東さん、今日は私と一登の結婚前の食事会よ。言葉に気をつけてちょうだい」
莉乃の顔色がさっと変わり、結葉を庇うように一歩前に出て、強い口調で言った。
だが蘭紗は莉乃の制止など耳に入らない様子で、なみなみと日本酒を注いだお猪口を手に立ち上がり、ゆっくりと結葉の目の前まで歩み寄る。
「どうして黙っているの? 五年前、お金持ちの御曹司と駆け落ちするために、土砂降りの雨の中で光一お兄様を捨てたときの威勢はどこへ行ったのかしら」
彼女の瞳には隠しようもない悪意と優越感が渦巻いていた。周囲の男たちも、かつて藤代家の跡取りを袖にした『金目当ての女』がどんな顔をするのかと、好奇と軽蔑の入り混じった視線を結葉に注いでいる。
結葉は長いまつ毛を伏せた。喉の奥がカラカラに乾いて痛む。あの雨の日が頭をよぎった。パトカーに連行されていく父の背中。数千万円に及ぶ損害賠償の判決書。
彼女は一言も弁解しなかった。社会人としての礼儀を崩さぬまま、静かに頭を下げる。
「坂東さん、ご冗談を。本日の私は、莉乃のお祝いのために参りました」
「莉乃、余計な口を挟むな!」
一登は額に冷や汗を浮かべ、大事な来賓である光一たちの機嫌を損ねまいと、テーブルの下で莉乃の袖を強く引いて小声で叱責した。
結葉が反論してこないと見るや、蘭紗はますます調子に乗った。わざとらしく手首を傾け、お猪口の冷酒を結葉の色褪せたスーツの胸元へ躊躇なく浴びせかける。
透明な酒が瞬く間に生地へ染み込み、氷のような冷たさで肌に張りついた。ツンとしたアルコールの匂いが立ち上る。
莉乃が息をのみ、怒鳴りつけようとした瞬間、結葉は背中に回した手で莉乃の震える手首を強く握り、小さく首を振って制した。
個室の全員の視線が、自然と上座の藤代光一へ集まる。
光一は片手をスラックスのポケットに突っ込んだまま、氷のように冷徹な表情を崩さなかった。結葉のほうを一度も見ようとせず、蘭紗の傍若無人な振る舞いを咎めようともしない。
長い指先でグラスを静かに揺らし、喉仏をわずかに上下させて、度数の高い酒を一気に煽った。
まるで他人の茶番劇を眺めているような無関心。それがどんな罵倒よりも重く胸にのしかかり、結葉は呼吸が苦しくなった。
怯えた様子の仲居が、そっとおしぼりを差し出す。
「ありがとうございます」
結葉は小さく礼を言って受け取ると、うつむいたまま、胸元の染みを手早く拭った。
背筋だけはまっすぐ伸ばしている。指先は感覚を失うほど冷えて震えていたが、顔には法廷に立つ弁護士としての冷静さを必死に貼りつけていた。
コトン、と光一がグラスを置いた。青磁の器と木のテーブルが触れ合う澄んだ音が、息の詰まるような沈黙を破る。
男はようやく緩慢にまぶたを上げると、底の知れない暗い瞳で、結葉の血の気のない顔をなぞるように見据えた。
「徳山。料理が冷める。まだ始めないのか」