「離婚しよう」
川上彩乃が撮影を終えて帰宅すると、夫の藤井盛雄が一枚の離婚届を彼女の目の前に放り出した。
目の前に立つ、気品漂うその男を見つめる。
三ヶ月ぶりに会ったというのに、彼の口から出た最初の言葉がこれだったなんて……
彩乃が黙っていると、盛雄はわずかに眉をひそめた。
「彩乃、まさか今さら気が変わったとか言うつもりじゃないだろうな?二年契約の結婚だってこと、忘れたとは言わせない。」
──そうだった。
彼らの結婚は、あくまで契約に過ぎなかった。期限は二年。そしてその期限は、ちょうど今日、終わったのだ。
藤井家の奥さまという肩書きも、今日で終わり。
「詩織、もう二十歳になったんでしょ。法的に結婚できる年齢よね。 私たちが離婚すれば、あなたも堂々と……ちょうどいいじゃないの。」そう言って、彩乃は努めて平静を装った。
川上詩織は、彩乃の異母妹で、父親は同じだった。そして、藤井盛雄にとって何よりも大切な存在だった。
二年前、詩織は血液がんを発症した。検査の結果、彩乃の骨髄が適合し、拒絶反応は一切出なかった。
たとえ見知らぬ病人だったとしても、彩乃は迷わず手を差し伸べるだろう。ましてや、相手は自分の妹だ。
だが、盛雄の見方は違った。彼の中の彩乃は冷酷で身勝手な女であり、そんな彼女が詩織を救うはずがない――そう思い込んでいたのだ。
だからこそ──詩織の命を救うために、彼は膝をついてまで彼女に懇願した。
これまでの人生で、彩乃が盛雄のあのような惨めで必死な姿を見るのは初めてだった。
盛雄とは幼いころからの付き合いだった。彼のことを、彩乃は十年も想い続けてきた。
そんな彼が、自分ではなく妹のためにひざまずいたことに、彩乃は嫉妬に狂いそうになった。
その場で、彼に言った。「私と結婚して。」
詩織を助けるためなら──そう言って、彼は二年間だけという条件で、結婚を受け入れたのだった。
二年という時間があれば──彩乃は、盛雄に愛される日が来ると信じていた。
けれど、結果は惨敗だった。しかも、見るも無惨なほどに。
そう思うと、彩乃の唇が青ざめたまま、わずかに吊り上がる。そこに宿るのは、己への皮肉めいた笑み。
盛雄の整った眉と目元には、わずかに苛立ちが滲んでいた。無言のまま手元のペンを差し出し、冷たい声で言った。「……サインしてくれ。」
彩乃は静かに頷き、そのペンを受け取り、協議書の最後のページをめくる。そして、署名欄に自分の名前を書き入れた。
ペンを置き、そっと顔を上げる。彼の瞳は、かつてと変わらず美しかった。星空と海をそのまま閉じ込めたような瞳──ただし今、その目が自分を見下ろすときには、氷のような冷たさが宿っていた。
心が、ざわりと揺れる。盛雄は協議書を手に取り、そこに書かれた名前を一瞥し、ぽつりと口を開いた。
「……詩織の病気が、再発した。」
彩乃は彼の話を途中で遮るように「まさか!それで、私も病院に行った方がいいの?」と驚いた声で尋ねた。
二年前──彼女が骨髄を提供し、詩織の命を救ったのだ。
けれど、藤井盛雄はその申し出を、冷たく一蹴した。「必要ない!まさかまた、あの時みたいな芝居をする気じゃないだろうな?」
その声には、鋭く突き刺さるような敵意が混じっていた。「もう最高の医師を手配してある。適合者も見つかった。 今回は──お前の出番はない。」 そう言いながらも、「詩織が、お前に会いたいって言ってた。」と続けたとき、盛雄の険しい眉はゆっくりとほどけ、冷えた表情にもほんのわずか、ぬくもりが戻っていた。
その変化を目の当たりにして、彩乃の胸がぎゅっと締めつけられる。
「……うん、わかった。」静かに頷き、そう返す。
「今日はもう遅いから、明日……引っ越してもいい?」 彩乃は無理に笑みを作った。ほんの少しでも、盛雄が過去の情にほだされるのではと期待して。だが、彼の返事は冷たく、迷いもなかった。「鈴木がホテルまで送る。」
────追い出すつもりなのか?
たった一晩すら、ここにいることを許されないの?
笑みがそのまま凍りつく。盛雄と向かい合ったまま、数秒間、互いに沈黙が流れた。先に顔を背けたのは彩乃だった。そっと表情を引き締め、踵を返して部屋を出る。
自室へ戻り、まだ詰めていなかった荷物に目を向ける。スーツケースの取っ手を引き上げ、静かに階段を降りていった。それを見た数人の使用人が慌てて駆け寄る。けれど彩乃は首を振って、微笑みながら言った。「大丈夫、自分で持てるから。」
使用人たちは顔を見合わせ、何も言えず、ただため息をついて一列に並び、彼女の後ろ姿を見送った。
二年間、ここで暮らしてきた。藤井家のこの邸宅には、少なからず情がある。──盛雄以外の、ここにいる全ての人が、彩乃に優しかった。
名残惜しい気持ちはあった。だが、盛雄と結婚してからの二年間、彼からの冷たい仕打ちに、心はもう十分すぎるほど傷つけられてきた。
もう、いい。
終わりにするときが来たのだ。
胸が裂けそうなほどの痛みを感じながらも、彼女は一滴の涙もこぼさなかった。
ホテルのチェックインを済ませたときには、すでに深夜になっていた。
一睡もできずに朝を迎え、身支度を整えた彼女は、そのまま中央病院へ向かった。
詩織は個室に入院していた。専属の看護師が付き添っており、ドアのガラス越しに食事を手伝っているのが見えた。だが、詩織は数口食べただけで、すぐにすべて吐いてしまった。その様子に、胸の奥がぎゅっと締めつけられるような苦しさが湧き上がった。