電話がつながるやいなや、甘く柔らかな声が耳に届いた。「颯斗、こんな夜遅くにごめんなさい。邪魔だったら、本当に申し訳ないんだけど……」
「さっきリビングで転んじゃって、足がすごく痛くて……もし今忙しかったら、自分で何とかするから……」
早瀬杏璃の言葉が終わるより先に、颯斗が即座に応じた。「そこで待ってて。すぐ行くよ」
「……ありがとう、颯斗。千景さんと一緒にいたんじゃない? 邪魔してないといいけど。誤解されちゃわないかな……」
「タクシー呼ぼうか、自分で……」
「気にするな。何も問題ないよ」 望月颯斗の声は、春の風のように優しくて、心をくすぐった。
――ふふっ。
桐原千景は、込み上げてきた笑いをぐっとこらえた。
バスルームには、水音とふたりの吐息だけが漂っている。全身びしょ濡れのまま、ふたりの距離は危ういほど近かった。まるで、弓を引ききった状態――いまにも何かが起こりそうな、そんな空気だった。
これが、「邪魔してない」っていう意味?
なるほど。特別に愛されるって、こんなにもわがままでいられることなのね。特権であり、例外であり、どんなルールからも外れた存在。
だけど――望月颯斗が愛しているのは、私じゃなかった。他の女の子……
なんて皮肉なこと。
そして次の瞬間、千景の身体は、大きなバスタオルにそっと包まれた。
大判のバスタオルが桐原千景の体を包み、艶やかな曲線をすっかり隠していた。
「ベッドまで運ぶよ。先に、休んで」望月颯斗の声は、いつになく優しかった。
けれどその言葉は、冷水を浴びせられたように、千景の心を一瞬で凍らせた。
――彼、早瀬杏璃のもとへ行くつもりなの?
千景は手をぎゅっと握りしめ、全身がこわばるのを感じた。
しばらく黙ったまま、そっと足を踏み出す。小さな歩幅でゆっくり彼に近づいていきながら、どうかしてる…そう思いながらも、
彼女は両腕を伸ばし、そのまま望月颯斗を、ぎゅっと抱きしめた。
千景の声は、かすかに震えていた。「ねえ……今日はそばにいてくれない?行かないで」
望月颯斗は、少し驚いたように彼女を見た。
けれどその驚きも束の間、彼はすぐに落ち着きを取り戻し、そっと彼女の髪を撫でた。
「ダメだ。怪我してるんだ。冗談で済む話じゃない」
「でも、私……今はあなたに、どうしてもそばにいてほしいの。行かないで」 千景の目は赤く潤み、唇を噛んでうっすら血がにじんでいた。
「やめなさい、千景。君はいつも、聞き分けのいい子だったじゃないか」
けれど、今日の彼女はもう“いい子”なんて呼ばれたくなかった。ただ、彼を引き留めたかった。
「颯斗…」名残惜しそうに、彼の顔を見つめる。
「ね、いい子だから。手を放して」
千景はゆっくりと首を振った。
「もう一度言う、手を離して!」
望月颯斗の目元がすっと冷えた。唇をきゅっと結んだまま、彼の大きな手が彼女の指を一本ずつ、強引にほどいていく。
その力があまりに強くて、指先がじんと痛んだ。
もう、すがる気力なんて残っていなかった。千景は寂しげに笑い、力なく手を離した。
「すぐ戻るよ」 去り際、颯斗はそう言った。
すぐ戻る?
そんなの、三歳の子に言い聞かせるくらいのセリフだ。早瀬杏璃に呼ばれて、彼が戻ってきたことなんて一度もなかったじゃない。
千景に子どもを望まなかったのも……結局は、彼女のため。早瀬杏璃のためだったのだろう。
なにしろ彼女は、彼が心の奥深くに仕舞い込んだ、どうしても手に入れられなかった女だった。誰もが忘れられない「初恋」のような存在。だからこそ、大切に、大切に、まるで神聖な宝物のように崇め奉られていた。
シャワーを浴びたあと、桐原千景はそっと布団に身を潜らせた。
けれどその夜は、なぜかいつも以上に布団が冷たく感じられて、どう寝返りを打ってもぬくもりが戻ることはなかった。
朝6時。
電話に出ると、相手は望月颯斗の母・望月蘭だった。「結婚式の日取りが決まったの。三ヶ月後、とても縁起のいい日よ」
おそらく誰かに占ってもらったのだろう。結婚にはもってこいの吉日らしい。
「今日はね、それを早めに伝えておこうと思って。ご両親にも、準備を始めてもらってちょうだいね」
「うちは望月家って言っても、無駄金をばらまくような家じゃないのよ。桐原家も、娘を金で売るような真似はやめてちょうだい。 それと、嫁入り道具はきちんと揃えてね。あんまりみすぼらしいと、うちの顔に泥を塗ることになるんだから。」
桐原千景は、ひとつひとつ丁寧に頷いて応えた。「わかりました、お義母様。父にちゃんと伝えます。ご安心ください、私は結納金なんて一円もいただきません」
だが、その言葉ですら望月蘭の気に入ることはなかった。
むしろ、さらに冷たく嘲るような声が返ってきた。「さすが、安っぽい女ね」
千景は、それ以上なにも言わなかった。
心の中ではわかっていた。たとえ結納金を受け取ったところで、それは情も義理もない父と、意地の悪い継母の懐に消えるだけなのだから。
「本当に、君のどこが気に入ったっていうのかしら。貧乏くさいし、育ちも知れてるし。」
「うちの子がどうしても君と結婚するって言い張らなかったら、お婆さまが賛成しなかったら、私は絶対に認めなかったわよ。」
電話を切る直前まで、望月蘭は不満をぶちまけていた。
千景は、ふっと苦笑するしかなかった。
……そう、ほんとうにそうだ。
彼女と望月颯斗の婚約は、まるで現実味のない夢のようだった。
でも――彼と結婚し、彼の妻になること。それは桐原千景にとって、生涯でたった一つの願いだった。
十五歳のあの年——
継母は「名門の奥様たちの集まりに連れていく」と言って、着いた先は望月家だった。
桐原千景は、継母の罠にはまり、足を滑らせてプールに落ちた。
――もう、助からない。そう思ったその瞬間。
一人の少年が、水しぶきを上げて飛び込んできた。
彼は彼女をしっかりと抱きしめ、凍える水の底から、そして死の縁から救い出した。
目を覚ましたとき、彼女が見たのは、背を向けて去っていく少年の姿だけだった。
けれど、彼の手首に巻かれていたあの黒い腕時計だけは、なぜか胸の奥に焼きついて離れなかった。
後になって、まったく同じ腕時計を見つけたことで、彼女は彼のことを思い出したのだ。
そう――望月颯斗が、あの日、彼女を救ってくれた。
たった一度の命の恩人。それだけで、彼女は心のすべてを彼に預けてしまった。
あの日を境に、彼と結ばれることが、彼女のただ一つの夢になった。
手を取り合い、共に歩み、いつか老いるその日まで――。
階下から足音が聞こえ、桐原千景の思考はふっと途切れた。
次の瞬間、寝室の扉が静かに開く。
現れた望月颯斗は、目元に疲れの色を浮かべ、スーツは皺だらけだった。
やっぱり――今夜も早瀬杏璃に付き添っていたのだ。
「すぐ戻る」って、言ってたのに。
千景は視線を逸らし、彼を見ないように努めた。
けれど颯斗は、何の前触れもなく彼女をぐいと引き寄せ、まだ冷えた唇でそっとキスを落とす。そして、低く掠れた声で、限りなく柔らかく囁いた。「…怒ってる?」
千景は身を引き、口を閉ざしたまま何も言わなかった。
彼の身体からは、明らかに女物の香水が香っていた。それ以上に、シャツにくっきりと残された唇の跡が、目を刺すほど鮮やかだった。
――早瀬杏璃の痕跡。まるで針のように、じくじくと胸を刺し続ける。
……痛い。
「ねぇ、あなた……まだ早瀬杏璃のこと、好きなの?」
ふと、千景は彼の顔を見上げた。その声は壊れそうなほど柔らかくて、それでも、確かに彼に向けられていた。
颯斗は手を伸ばし、千景をそっと抱き寄せた。
そのまま、低く艶のある声が耳元に落ちる。「君、いつも何考えてるんだ?」
「早瀬杏璃には、少し特別な感情があったのは認める。でも、それはあくまでクラスメートとしての情にすぎない。他には何もない」
千景は何も言わず、ただ彼を見つめながら尋ねた。「じゃあ…私は?」
「颯斗…私を、愛してるの?」