「松尾さん、検査の結果ですが、生まれつき子宮の壁が薄く、胎児の状態も安定していません。普段の食事や運動には、特に気をつけてくださいね」
医師は注意を促しながら処方箋を書き、診察カードを手渡した。「はい、お薬はこちらで」
「…ありがとうございます」松尾凛和はカードを受け取り、ゆっくりと立ち上がった。
すると医師は、さらに念を押すように声をかけた。「本当に気をつけてください、軽く考えないように」
子宮壁が薄いと流産しやすく、ひとたび流産を経験すると、次はもう妊娠できない場合も多いのだ。
「ありがとうございます、先生。気をつけます」 凛和はにこやかにうなずいた
三年の結婚生活の末にようやく授かった命――この子を誰よりも待ち望んでいたのは、ほかでもない彼女自身だった。だからこそ、どんなことがあっても守り抜くと心に決めていた。
薬を受け取ると、松尾凛和は診療棟を出て、車に戻った。
運転手がエンジンをかけ、ルームミラー越しに彼女を見る。「奥さま、旦那さまの午後三時のフライトまで、あと20分です。空港へ空港に直行しますか?」
「ええ、お願い」
20分後には彼に会える――そう思うだけで、松尾凛和の頬には自然と甘やかな笑みが浮かんだ。胸の奥が、もう待ちきれないとざわめいている。
福田宗之は、出張に出てすでに一ヶ月近く。彼がいない日々は、ひどく長く感じられた。
道すがら、彼女はついバッグの中から妊娠検査の診断書を取り出し、何度も見返してしまう。そっと手を小腹に当てた。
この中に、彼と自分の赤ちゃんがいる。あと八ヶ月もすれば、生まれてくるのだ。
この嬉しい知らせを、今すぐ彼に伝えたい――そんな想いで胸がいっぱいだった。
空港に着くと、運転手は車を目立つ場所に停めた。「奥さま、旦那さまにお電話をかけてみてはいかがでしょう?」
松尾凛和は時間を確認し、福田宗之の便はすでに着いている頃だと見当をつけて、電話をかけた。だが、応答は「現在、接続できません」という自動音声だった。
「きっと飛行機が遅れてるのね。少し待ってみましょう」 そう言ってからしばらく経っても、
福田宗之はまだ姿を現さなかった。
松尾凛和はもう一度電話をかけたが、やっぱり繋がらなかった。
「もう少し」
飛行機の遅延は珍しくない。二時間の遅れなど、よくある話だ。
二時間後。
松尾凛和は再び福田宗之の電話番号を押した。今度は冷たい音声ガイダンスではなく、すぐに誰かが応答した。「宗之、もう着いたの?」
電話口の向こうで一瞬の沈黙ののち、女性の声が聞こえた。「すみません、宗之は今お手洗いに行ってます。戻ったら、こちらからかけ直させますね」
凛和はまだ一言も言ってないのに、電話の向こうからはすでに無機質な通話終了の音が流れてきた。
彼女はしばらく、スマートフォンの画面を見つめたまま、呆然としていた。
たしかに記憶している。今回、宗之は出張に女秘書を連れて行ってはいないはずだ。
凛和は消えた画面をじっと見つめ、宗之からの折り返しを待った。
だが、十分が経っても、何の音沙汰もなかった。
福田宗之からの折り返しはなかった。
凛和はさらに五分待ったものの、ついに我慢できず、もう一度彼に電話をかけた。
呼び出し音が長く続き、自動的に切れる寸前でようやく繋がった。受話器の向こうから聞こえてきたのは、聞き慣れた低くて心地よい声だった。「もしもし、凛和?」
「宗之、今どこ?私と運転手はDターミナルの駐車場にいるの。そっちに直接来てくれたらいいから」
福田宗之の声が一瞬だけ途切れた。「ごめん。飛行機を降りてから、携帯の電源を入れ忘れてた。もう空港は出てるんだ」
松尾凛和の笑顔が、ふっと翳った。
「じゃあ……家で待ってる?」そう言って、彼女は唇を噛みしめた。「話したいことがあるの」
「うん。俺も、君に話したいことがある」
「夕飯は、君の好きなものをおばさんに作ってもらうから……」
「自分が食べて。俺はまだ用事がある。帰るのは、少し遅くなる」
松尾凛和は少し落ち込んでいたが、声には波風ひとつなく静かに答えた。「……わかったわ」
電話を切ろうとしたそのとき、福田宗之の向こうから、さきほどの女の声がまた聞こえてきた。「宗之、ごめんなさい。さっき松尾さんから電話があったの、つい伝え忘れてて……」
胸の奥がすっと冷たくなって、彼女は眉をひそめた。今にも「誰よ、あの女は」と問いただそうとした瞬間、通話は切れてしまった。
スマートフォンの画面をしばらく見つめたあと、彼女はそっと唇を結び、運転手に告げた。「……家に帰って」
運転手は断片的な言葉から何かを察したのか、車を空港から走らせた。
夕食時、松尾凛和は食欲がなかったが、お腹の子のために少しだけ口にした。
リビングではテレビがついていた。
彼女は抱き枕を抱きしめたままソファに座り、テレビの内容など目にも入らず、何度も腕時計の時刻を見ていた。
すでに午後十時を回っていた。
凛和は大きなあくびをひとつ漏らし、気づけばそのまま眠りに落ちていた。
うつらうつらと夢とうつつを彷徨うなか、ふいに身体がふわりと宙に浮くような感覚があった。誰かが自分を抱き上げたのだと、ぼんやり思う。
凛和は夢うつつのまま、どこか懐かしい匂いと微かなお酒の香りを感じ取り、くぐもった声でつぶやいた。「…宗之?」